三回忌―個から見た死と葬送(20)

三回忌 三回忌だという。 つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。 現実感がまるでないのだ。 心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。 でも、癒える必要はないのだ、と思う。 この傷みこそあなたの残り香なのだから。 この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。 どうか、私の心を傷ませ続けてください。 「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」と人は言う。 それは何と残酷なことだろう。 時間よ、止まってほしい。 かろうじ... 続きを読む

死の自己決定権―死に対する自由意思の限界(下)

本稿は「現代の死―死に対する自由意思の限界(上)」 https://hajime-himonya.com/?p=1510 の後編。 死の自己決定権 ■「死の自己決定権」の文脈 生きる上での「自己決定権」というのは個人の基本的人権として認められている。これは「死の自己決定権」に及ぶのか、及ぶとすればどこまでか、が議論としてある。 憲法第11条から第14条には基本的人権が定められ、特に第13条は重要である。 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について... 続きを読む

現代の死―死に対する自由意思の限界(上)

現代の死 死に対する自由意思の限界(上) 死について「本人の自由意思」がキーワードになっている。 この問題については数回取り上げているが、キリスト教関係の雑誌で私が大学院時代から書かせていただいた『福音と世界』2015年3月号に書かせていただいた論稿を掲載する。 ※内容は近年書いたものと重複することがあることをお断りしておく。   ■はじめに―個人的なこと 最初に個人的なことを書く。 筆者の姉は、13年6月に大腸がんでステージⅣであることを医師から宣告され、11か月後の翌年4月、72歳で死亡した... 続きを読む

長過ぎる不在―個から見た死と葬送(18)

基本としてここに描いたものはフィクションである。私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。長過ぎる不在 先日、後輩の息子が死亡し、葬儀に出かけた。職場で倒れ、入院。10日後に息を引き取ったという。 遺族の顔を見ると、15年前の私とそっくり。 目はときおり上げるが誰も見ていない。 宙を彷徨っている。 私は15年経たが、息子の不在から卒業できていない。 5年後に部屋の模様替えをしてみたが、かえって居心地が悪くなった。 息子の帽子を2つ取り出して玄関にかけてみた。ときおり触って... 続きを読む

息が止まる時―個から見た死と葬送(17)

息が止まる時 生命の火がかすかに揺れている。 静かにろうそくの火が燃え尽きようとしているのだが、そこはかとなく保たれている。 見ているしかない。 新たにろうそくを足すでもない。 新たに何かをすることを本人が本能的に拒否しているように思えた。最期の生きざまを見守るしかない。 何もできないことを最初は切なく思ったのだが、本人を見ているとそれとは違う。 本人は、その消えゆくさまを楽しんでいるかのようだ。まるで遊戯をしているようだ。 閉じた目が開くことはなく、静かに息をするのを辞めるのではないか、ほぼそのようだ、... 続きを読む