葬祭サービスを問う

3.葬祭サービスの基本

■葬祭サービスとは

 葬祭サービスという言葉の語源、それを普及させた人の思い、それが現在どのような地平で論じられているかは、これまで述べたとおりである。
「葬祭サービスとは何か」を改めて論じる前に、そもそも「葬儀」とは何かを確認しておく必要がある。
 かつて私は次のように定義した。

「葬儀」とは、臨終から死後の喪に至るまでの、死別に出逢った人が営む、悲しみ、葬り、そして悼む一連の儀礼のことを表します。
 注意すべきことは、葬儀において表立って執り行われる儀式行事は、死を悼む人々の心の悲しみのプロセスの上に成り立っているということです。表面の儀式行事だけではなく、その奥底に流れる人々の心の動きを合わせて、葬儀を理解する必要があります。(『葬儀概論』)

 補うならば、一連の儀礼の背後にあるのは「文化」である。この文化に対する根本的な理解を欠いたところでは葬祭サービスは成り立たないのである。
 儀礼というのはイベントではない。文化的背景をもったものである。したがってファッションでもない。

 そしてこの文化の骨格を担っているのは「死をいかにして受けとめるべきか」という人の営みである。こうした問いが、日本では仏教や民俗がそれぞれ習合しあいながら葬送文化を形成してきたのである。
 かつての葬送習俗を復活せよと言っているわけではない。文化的背景に対する深い理解が必要だと言っているのである。

 葬送文化形成にも大きな影響を与えたのが、死によって遺族の被る打撃、悲嘆である。
 葬式の主体は、一方で死者であり、他方は遺族である。この遺族は死別の悲嘆(グリーフ)を抱えた存在である。
 死者のために遺族は弔いを行う。これを宗教者も、会葬者も、そして葬祭業者もこれを支援するのである。「弔いの支援」こそが葬祭サービスの本質と言っていいだろう。
 あくまで「死者のために」であるから、「遺体の尊厳」を守ることは最も重要な支援の内容としてある。

 そして「遺族がなす弔い」であるから、遺族の心情を深く理解しないでは行いえない。
 さらに「宗教者や会葬者と共同で」行う支援であるから、宗教への理解、会葬者を構成する親戚、地域、友人、知人への配慮は欠かせない。

 そして支援としては「弔いの場」を準備するのであるから、遺族の意向、宗教者の考えに耳を傾け、文化的背景を正しく理解して行う必要がある。枕飾り、通夜・葬儀式場の設営、後飾り等は弔いの場として準備されるべきである。

 この「弔い」は通夜や葬儀の儀礼だけを指すのではない。死亡直後(生前予約・契約の場合にはそれ以前からであるが)からの一連のプロセスを言う。遺体の搬送、安置、納棺、通夜、葬儀、火葬、その後の会食という一連の流れであり、その間を遺族はどう過ごすのか、ということをも含めたプロセスである。さらに四十九日、百か日、一周忌と続く喪のプロセスも続く。

■「サービス業」として

 また、この支援はボランティアとして行われるのではない。サービス業としてサービスを対価を得て提供するのである。したがって遺族と葬祭業者の関係は、消費者と事業者の関係になる。事業者は消費者に対して情報開示、説明、明瞭な価格の提示の義務を負い、消費者の理解を得た同意という契約によりサービスを提供するのである。
 消費者契約法、個人情報保護法という法律の制約に当然置かれることになる。

 公正取引委員会の調査でも問題にされたのは、消費者に対する「説明と同意」に関するものであった。事業者は消費者に説明をするのだが、それが消費者に充分な理解を得るに至っていないという点であった。

 これは価格表にしても、価格表がないという問題以前のところもあるがあったにしても、事業者側の視点から作られ、消費者側の視点から作られていないことが多い。
 いろいろな点を見ても、情報開示、あくまで消費者に有用なという意味において、が必ずしも充分とは言えない。というより情報開示は遅れているのが実情である。

 だが、そういう一般のサービス業という観点から不足する点を補ってもまだ、葬祭サービス特有の問題があることを指摘しておかなければばらない。  それは葬祭サービスの受け手である消費者が遺族であることからきている。死別直後の動揺、不安、無感覚といったグリーフのただ中にあるということである。

 だから実際には説明しても、説明されたとは受け取らなかったりする場合すらある。
 見積額が葬祭業者に関するものだけなのに宗教者の費用も含んだものだと誤解したり、親戚や会葬者の数によって変動する料理やお返し物についても、実際の請求額がそれによって変動すると不信感を感じてしまうということが生じる。
 また、葬儀を体験する機会が少ないことも大きく影響している。
 一通りの説明では不充分で、わかりやすく、かつ、懇切丁寧な説明が要求される。遺族がきちんと理解したうえで同意し、契約を結ぶという手続きが重要となる。
 これは料金だけのことではない。葬儀の趣旨にしても、進行の仕方にしても、はては生花の並べ方に至るまでそうである。

 葬祭サービスで気をつけなければいけないのは、顧客が希少経験なために不安を抱えていること、顧客が遺族となってグリーフを抱えていることを充分に配慮し、その顧客の身になってのサービスを提供する必要があることである。

■聞く作業

 葬祭サービスで説明の重要なことを述べたが、そもそも遺族と接して最初に行うことは説明ではない。
 まず哀悼の意を表す。遺族のグリーフに対して共感を寄せることから始まる。第三者ではあるが、遺族の立場に共感を寄せてサービスを提供する者であることを、言葉や態度でもって表明することである。
 この哀悼の表明が、顧客である遺族との信頼関係を作る糸口となる。

 ほとんどの場合、医療関係者を除き、死別後の遺族に対面する最初の人物が葬祭従事者となる。死別後に最初に出会う人間になる、ということのもつ意味は大きい。その人間が信頼に足る人物なのか、遺族は瞬時に判断する。それを決するのが哀悼の意の表明であると言ってもいいだろう。

 そして遺族との打ち合わせにおいても、まずは説明ではない。遺族の想いに耳を傾けるということである。葬祭従事者は主役ではなく、あくまで遺族の弔いを支援する者である。遺族の想い、死者に対する想いを聞かずには何も始まらないのである。

 耳を傾けるという動作は、私はあなたの味方です。信頼していいんですよ、という意志表示である。
 遺族の語る故人像を自分のものにする作業である。

 これは2つの意味で重要である。
一つは、弔われる主役である故人を理解しないでは弔いの支援そのものが成立しない、ということである。もう一つの意味は、まず遺族が想いを吐き出す機会を提供することである。遺族が死者について語ることにより、死が事実であることの認識を強めると同時に、その想いを吐き出すことそのものに意味がある。そして耳を傾ける存在がいるということは遺族の支えになる。

■枠組み

 死者について理解を深め、遺族関係についても理解を得たら、次になすことは商品の選択ではない。
 どういう葬儀にしたいのか、遺族は火葬、葬儀に至るまでどういう時間にしたいのか、という枠組み作りである。
 通夜や葬儀をどうもちたいかだけではない。どのように時間を使って死者を送りたいのか、ということをきちんと確認する作業である。

 これまで葬祭業者の提供するサービスは通夜、葬儀ということが中心であった。もちろん、通夜や葬儀をどうもつかも重要である。しかし、それだけではない。遺族が葬送の時間をどのようにもつかというなかで位置づけられるべきことなのである。葬儀は点ではない。遺族の弔いのプロセスなのである。

 この枠組みの中で、会葬者の範囲、宗教をどうするか、どんなスタイルの装飾にするか、遺体処置はどうするか、費用の枠組みはどうするか等も相談される。そして相談した結果の枠組みを確認する。
 この相談して合意した枠組みは文書化したほうがよい。誤解が生じないためである。
 この合意した枠組みをもとに、細目の決定、見積もりが行われるという手順が必要なのである。

 この枠組みを決めるにあたっては、可能なかぎり宗教者が一緒に作業できることが望ましい。宗教者も葬祭業者も共同で遺族のために葬儀を「創る」のが望ましい。遺族にとっては死者を理解し、遺族の想いを理解してくれる人がいるということが大切なのである。

■遺体と遺族の時間

 これからの葬儀で大切なのは、遺族と遺体が一緒に過ごす時間をきちんと確保することである。
 本来、通夜はそのための時間であった。いまではあたかも告別式のようになった感のある通夜であるが(そのため「通夜式」なる奇妙な名称までつけられる。通夜が告別式化したために通夜をイベント化しようとする、葬儀文化とは無縁の発想としか言いようがない)、納棺後の通夜の前の時間、通夜が終わった後の時間、翌日の葬儀開始前の時間、と工夫すれば時間は作り出せるはずである。

 私の個人的な体験では、通夜を自宅で行い、そのため家族が死者と個々に別れる時間は充分にあり、また葬儀のために家を出棺する前に遺族が皆集まり、遺体に手を触れて1時間にわたりお別れした。
 葬儀の後の火葬場への出棺を前にしたお別れの儀だけでは別れるのに充分な時間とは言えない。遺族がそろって、時間をあまり気にすることなく別れのための時間をゆっくりともてるよう配慮することが重要となる。いま、斎場の遺族控室で遺体とゆっくり別れることができる空間作りも始まっている。

 遺体との別れのためにエンバーミングはもっと注目されていい。刑法190条死体損壊罪との関係では最高裁が棄却してIFSAの自主基準に従う限り問題はないとする判決が確定し、エンバーマーの養成も進んできている。施設のほうでもコストダウンが図られている。法・人材・施設と3点で従来のバリアはなくなった。遺族に故人とのいい別れを提供するという意味からも、もっと普及してほしいと考えている。

■安い葬儀から温かみのある葬儀へ

 バブル景気の崩壊後、家族葬に象徴される「小さな葬式」がまたたくまに流行した。
 葬式をしない、いわゆる「直葬」までも市民権を得ようとする勢いである。
 だが消費者は、単に「安い」葬式を望んでいるわけではないだろう。見栄をはるような葬式は望んでいないだろうが、温かみのある、きちんとお別れができる、いい弔いを望んでいるのではないだろうか。

 遺族が参加し、自分たちが送ったのだと実感できるような、いいお葬式を望んでいるのではないだろうか。
 それぞれの遺族に対して、そういう時間と空間を適正な料金でどうしたら提供できるか、それがこれからの葬祭サービスの課題ではないだろうか。それが葬祭サービスの「価値」ではないだろうか。

 いかにも「売らんかな」の商売が横行している。業界が荒れてきている。それぞれの遺族のためになる「価値」を提供できる質の高い、そうして透明性のあるサービスを提供するにはどうすべきか、いま考えるべきところにきていると思う。

 宗教者との協働も重要な課題である。葬儀が死者を送る場として、緊張感のあるものとして、安物の演出によるのではなく、きちんと行われるにはどうしたらよいか、真剣に考えるべきであろう。
 宗教法人を買い取って、僧侶派遣する、僧侶が受け取るお布施の上前をはねるリベートなど、宗教を貶めるだけではなく、結果的に遺族の弔いも冒涜する行為になるのである。

 遺族がきちんと死者を弔い、別れるために、それを援助、支援する者として宗教者も葬祭業者もいるのだということを銘記すべきだろう。
 葬祭サービスがポリシーをきちんともって提供されるかどうかに、これからの葬儀の命運もかかっているように思われる。

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