なぜいま葬式で宗教が問われるのか?

碑文谷創(2006.11)

■通夜の告別式化と家族葬

 近年の葬儀の特徴は、相反する現象であるが、通夜の告別式化と家族葬の人気である。
 長く(といっても昭和の前期に大都市で開始され、全国的には戦後に定式化されたものであるが)「葬儀・告別式」が実態を失い、いまや通夜が告別式化して「通夜・告別式」となっていることである。

「葬儀・告別式」がいいというのではない。特に高度経済成長期以降、葬儀式と告別式が併行に行われることになって、葬儀式よりも告別式が主体になってしまっていたからである。葬式の宗教離れ、形骸化はこの時代から始まったと言うべきであろう。
 それがいまや近親者の私的な親密な死者との別れの空間である通夜までを侵食し、通夜が告別式化した。
 通夜の会葬者が葬儀当日の会葬者の数を圧倒しているのは何も都会だけの現象ではない。
 その結果、通夜に会葬者が集中し、葬儀当日は近親者中心の空間に変化しようとしている。依然「葬儀・告別式」あるいは「告別式」と称されているが、葬儀当日は「告別式」の部分はほとんど実態のないものになっている。

 こうした「通夜・告別式」の流れに逆らうように、葬式全体を外部から閉ざすかのような家族葬が流行し、もはや充分に市民権を獲得している。
 家族葬の流行は、日本も欧米と同じように、葬式が個人化の方向に舵を切ったことの証明である。葬式がもはや地域や企業といった共同体のものではない、あくまで近親者を中心とする死者との別れの空間であるという認識が広がっている。「通夜・告別式」はプロセスとしての葬式が失われ形骸化した一つの結果であり、「家族葬」は、個人と社会の関係が希薄化し、あるいは家族関係が変化したことの結果としてある。  しかし考えて気づくのは、「通夜・告別式」化にも「家族葬」流行にも、歯止めとしても促進においても、宗教が影響を与えた痕跡があまりないことである。

■「葬式の宗教」を巡る収奪

 結婚式がキリスト教式で営まれるのが7割というのは、人々がキリスト教に目覚めた結果ではなく、ブライダルのファッションとしての流行であることは誰でも知っていることである。そこにいる牧師や神父は、ブライダル産業に仕える演者と化している。
 同じような事態が葬式でも発生しつつある。都会の一部大手葬祭事業者は、葬式に僧侶を斡旋し、葬式における宗教儀礼をも支配しようとしている。
 
 言い草は洒落ている。「高い戒名料は不要である」「安く院号が手に入る」「費用の明朗化」、おまけに「葬式後にお寺との面倒な付き合いは不要」
 なかには「本名である俗名で葬式しますよ」というのもある。
 葬式仏教の悪評判を逆手にとっての動きである。

 地方ではお寺と檀家との結びつきはまだそこそこあるものの、地方から都会に出た人々は、都会では宗教的浮遊層を形成している。その数は首都圏では4割とも5割とも言われる。
「自分の家の宗派もわからない。わかってもこだわりがない。しかし、お経のない葬式は寂しいという。そういう人々に良心的な宗教サービスを提供するのは葬祭事業者たる役目」
 と、臆面もなく言い放つ葬祭事業者があり、「宗教事業」に進出している。
「お寺がある人はいい。ない人に紹介・斡旋することがどこが悪い」
 と、悪びれるところがない。

 結婚式における牧師・神父のブライダル産業による派遣が一般化したように、僧侶(あるいは牧師・神父、神職)の葬祭産業による派遣が一般化しない、とは言い切れない現実がある。
 葬式宗教サービスに進出している葬祭事業者が「自分たちは明朗。お経料25万円、院号つき40万円」と自信満々に言い放つ背景には、他方で「70万円でなければ葬式しない」とこれもまた、遺族の足許を見るように言い放ってはばからない一部僧侶が現にいるということがある。

 そうした僧侶が多数派でないことは事実であるが、一部に「宗教者」を自認するものの、葬式のみを生業とする者が現に存在する。
 あるいは地方寺院の僧侶が「都市開教」の美名の下に都市に別院を設け、葬祭産業の下請けプロダクション化している例もある。
 葬式における宗教が、葬祭事業者であれ、宗教者であれ、食い物にされている、されようとしている現実がある。

■いのちに対する感覚

 葬式において食い物にされている部分がある葬式における宗教であるが、食い物にされるなら葬式に宗教は不要とする声がある一方、そうされても葬式において宗教に多くの人がこだわるのは、死に対する特別な感情があるからである。
 葬式をしない、いわゆる「直葬」の場合でも、火葬炉の前での読経は依頼するケースが少なくない。
 葬式における宗教は、結婚式における宗教と同じ次元で見ることは適当ではないだろう。たとえ一部の葬祭事業者が同じ次元で見ていたとしても、民衆にとってはそうではない。

 無宗教葬が「自由葬」ともてはやされても、同じ時期にもてはやされた「家族葬」があっという間に市民権を得たのとは異なり、「自由葬」はまだ少数にとどまっている。結婚式における仲人、神前の儀式の衰退と同じようには動いていない。それは葬式における宗教がファッション以上の何ものかの意味をもっているからである。あるいは何ものかであると感じられているからである。

 これまで日本人の死の文化と一体化された仏教の民俗化がその解答として言われてきた。浄土往生あるいは成仏が日本人の他界観を形成してきたと語られてきた。あるいは日本人の他界観が成仏または浄土往生の思想と一体化したと語られてきた。
 だが、この民俗的他界観が、いまどれほどの影響力をもっているだろうか。小さくない影響力はもつが、支配的とまでは言えない。死生観も多様化している。
 それゆえ、それが何かを言うことはできないが、その一つは、いのちに対する畏怖の感情であるように思う。

■独立と協働

 葬祭事業者には「宗教者が遺族のサポートをしないから、自分たちがやらなければいけなくなっている」という声がある。宗教者に言わせれば「葬祭事業者が勝手にやって宗教者の領域まで侵している」となる。  また、地方では宗教者の力が強く、都会では葬祭事業者の力が強いということがある。またキリスト教の葬儀では牧師・神父のイニシャティブが見られるが、仏教では僧侶の係わりは限定的である。

 死者あるいは遺族のためというならば両者は協働すべきである。そのためには遺族との打ち合わせは宗教者、葬祭業者が一緒に参加することが必要なのではないか。
 宗教者が生前から本人と係わり、その死を看取っているのが理想的である。その生前からの係わり抜きで死後だけ係わるのでは難しい。宗教者の力の喪失の原因は死後だけの係わりになることからきている。
 
 しかし、死後においてであっても、最初に死者の意思、遺族の想いを聴くという点において両者は誠実であるべきであろう。そのうえで、どちらが上下ではなく、それぞれの仕事の範囲と内容を尊重し、2つとない葬式のために協働すべきであろう。
 
 葬儀式をはじめとする宗教的分野については、葬祭業者は介入すべきでなく、また宗教者は、自らの責任で執り行う必要がある。現状においては宗教分野への葬祭業者の不必要な介入、宗教者の責任のなさが見られるからである。
 少子多死社会にあって、いのちの綻びがあちらこちらに見られる。死や葬儀においても同様である。宗教者の、遺族の同伴者でありつつ、いのちへの対峙と強いメッセージがいまこそ必要とされているように思われる。

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