また家族の意思での脳死判定、臓器移植があった。このところ連続している。 私自身はカードに脳死判定、全臓器提供意思を記入している。但し、肺はもとより、使おうとしても使用可能な臓器あるかどうかは別問題である。 延命治療にしても本人の意思が事前に明らかでなければ、結局のところ家族の意思にその判断が委ねられるというのは家族にとって厳しいものである。まして臓器移植は、一般論から言えば、若い人の臓器が対象になる。交通事故とかそうした突然の事故死等のケースが多い。そこで判断を迫られる家族ははたして正常な判断が可能か? ... 続きを読む
月: 2010年8月
8月15日
8月15日敗戦記念日心して想う。 8月13日~16日は月遅れのお盆である。多くのところで15日の晩、盆踊りが行われ、夏祭のピークとなる。この盆踊り、生者だけではなく死者も一緒に踊るという。生者と死者が心おきなく一緒に過ごす時間 死者を想う時、戦争の死者を想う時 昨夜、倉本聰『歸國』がテレビで放送された。といっても私は帰路、音声でのみ最後の部分を聴いただけだが。戦時中に南の島で玉砕した「英霊」が現在の日本に現れるという話。演劇のドラマ化らしい。 死者が帰ってきたらどう思うだろう?死者を迎えるお盆 皆、あま... 続きを読む
死に方は選べない
(以下、9日のブログの後半に書いたが、テーマが異なるので分けた) ある僧侶向けの講演会に行ったときのことだ。講演が終わり質疑応答、意見発表で発言した僧侶が「葬式において儀式の有用性を説く必要がある」と語った。その人の意見はそれでいいが、死者や遺族のことを傍らに追いやり儀式の必要性もないだろう、と私は答えた。死という事実、リアリティが欠けたところで、どういうリアリティ、力を儀式はもちうるというのか。 中には檀信徒でもない一般の人が仏教で葬式をしない、と文句を言う僧侶がいる。いわく「葬式文化が失われた」と慨嘆... 続きを読む
原爆忌にあれこれ思う
きょうは長崎、先日は広島の原爆忌である。65回目となる。私の誕生の半年前の出来事だ。 世界には人類全部を殺戮しても、まだあまる核兵器があるという。人類の未来は一部指導者の手に委ねられている、という事実。それが安全ならばいいが、かなり危ない。 殺され、泣く人間の存在も許されない。「現実感」がなくとも、もっと想像力を働かせていいはずだ。 「核の傘」というバランスは崩れたらそれまでだ。たとえ報復がされてもどんな未来が残されるというのか。一人の人間が狂気に陥った時、誰がどのように阻止する、阻止できるというのか。 ... 続きを読む
夏休みではないのです
今年の夏は暑いです。九州に行っても関西に行っても、そして東京にいても暑いし、蒸します。 ブログの更新を怠っていると、ご心配いただくようで、申し訳ないやら。加齢により、あまり併行しては作業ができず、追いたてられるような生活をしていると、怠りがちです。何か、更新が月1回になってしまっている(トホホ…) このところ少し、ナマケモノの私としてはですが、忙しくしていました。寝る時間も少々短くなっています。 仕事もそうですが、最近は「解がない」ことをつらつら考えていて、時間の感覚をなくしています。でも身体的には特に問... 続きを読む