- 「墓」はどこへ行く
- 葬式なんてやってられない?
- 「一周忌」の「忌」
- 「葬式についての無知」の多数化とこれに乗ずる事業者
- 火葬、墓は「処分」なのか?
- 2035年問題―「団塊世代」の昼と夜
- 数字で見る少子・超高齢・多死社会
- 場を弁えない、やかましい案内
- 再びの個人的な葬式体験
- 葬式を再生するための検討課題
- お葬式―個人的な体験
- 「終活」ブームのコンテキスト
- 「直葬」の背景
- 「儀礼」のもつ位置
- 「簡略」がいいか、「手間」がいいか
- 「喪主」はどなた?~死者と近親者
- 近代化のキィとしての公衆衛生
- 「健康寿命」の陥穽(おとしあな)
- 葬送の個人化の社会的環境と行方
- 葬式は区切りになるのか
- 1年後の3・11 追悼ということ
- 一人の想像力をはるかに超える惨事
- 変わる終末医療―でも、死はなくせない
- 火葬と埋葬―東日本大震災の仮埋葬
- 不幸な誤解―大震災と寺、神社、教会
- 終わっていない3・11
- 乳幼児 葬式をしなかったのは正しかったか?
- 何かがおかしい―葬式の簡略化
- 創刊20周年に回顧する葬送の変化
- 戦争と死を考える
- 葬式料金が値崩れと言われるが
- 弔われる権利、弔う権利
- 寺受難の時代 仏教寺院の変遷
- 「寺檀」関係を崩す寺側の問題
- 「歯がゆさ」は何に起因しているか?
- 斎場を何と呼んでいるか?
- 死生観が共有されない時代に
- 伝統仏教「第三の大きな変革期」に直面
- 葬儀と差別―死穢
- 混迷の中にいる葬儀の消費者
- 葬祭業の条件―錯覚している「近代化」
- 遺族それとも消費者?
- 葬儀の仏教離れは始まった?
- それぞれに等身大の葬儀
- 難民化する高齢者とその死
- 気になる「通夜式」「お清め」「感動演出」
- 高慢な僧侶は生き残れるか?
- 増える超高齢者の死の問題
- 創刊100号を迎えて
- 1人称の死、2人称の死
- 弔いと悔やみ
- 遺族に役割からの解放を
- 葬式をするということ
- 造園家の突然の死
- 社会問題化する自死
- 死者への悔恨
- 息子から見た母の葬式
- 宗教のないお葬式
- なにごともなかったかのように
- 新高齢者の葬儀像
- 最後のお別れ
- 私的「理想の死に方」
- 四十九日のもつ意味
- データで読む超高齢社会
- そこにいないということ
- 後期高齢者の送り方
- 家族葬の論理
- スピリチュアルな体験としての葬儀
- 無意識的非葬式派の出現
- 葬式を知らない子供たち
- 葬儀の習俗
- お盆―この不思議な時空間
- ペットロスの悲劇
- グリーフケアの視線
- 再びまみえるを
- 普通のお葬式
- 別れること、送ること
- 葬祭業者の仕事
- 葬儀の地方差と文化
- デフレと葬儀
- 葬式を放棄する遺族
- 葬送文化の継承と創造
- 樹木葬を考える
- ある葬儀の風景
- 来世のイメージ
- イニシエーションとしての葬儀
- 「戒名」論議の地平
- 葬儀のスケジュール
- 葬儀をする意味
- グリーフワーク
- 「墓」を考える
- 生前契約と生前予約
- 葬儀の贈与交換
- 叔父の死とその葬儀