葬祭仏教の退潮は何を意味するか?
このところ仏教界の現場である地域単位の研修会で「葬祭仏教」がテーマとして取り上げられることが多い。
今まで表の顔である教理仏教の陰で取り上げられることの少なかった葬祭仏教を正面から取り上げるべきだということが一つ、もう一つは寺の生活の基盤であった葬祭仏教が肝心の葬祭現場で力を失いつつあるという危機感からである。
表立っては唱えてないものの、僧侶になる剃髪を象徴する儀礼であるお剃刀を葬送儀礼に取り入れている浄土真宗も含め、大村英昭教授(関西学院大・浄土真宗)は、仏教各宗派の葬儀が「没後作僧(もつごさそう)」という考えを根底においていることを検討し直すべきことを提言している。
没後作僧とは、死者を僧にする、つまりは死者を仏弟子として浄土(仏界)に送り出すということである。これは佐々木宏幹名誉教授(駒沢大・曹洞宗)が解明したように死者をホトケにすることである。
死者をあの世に送り出すことに仏教葬儀の根幹はあったのであり、そのことがまた家族の喪失という危機を抱えた遺族の心情に応えるものであり、民衆からの葬祭仏教への強い支持を集めた理由でもあった。
ところが現況はと言うと、生活者、民衆の意識の中で、他界観、彼岸意識、あの世観が急速に衰退している。こうした現実の前で、仏教葬儀は意味を失いつつあるのだ。
そもそも葬祭仏教とは仏教そのものではない。仏教が民衆の意識、民俗と習合したものである。それぞれの宗派による教理的背景をもって葬送儀礼は行われるが、生活者、民衆の「死者はどうなるのか」という死者の魂の行く末を案じる問い、関心に、教理的に詰めた議論なしに同化したものである。
各宗派は魂の行き先についてそれぞれ示すが、民衆にとっては、死後の行き先が浄土であるのか、仏となることであるのか、浄土でも西方浄土であるのか霊山浄土、密厳浄土なのか、は問題ではない。安心できる行き先であればよかった。安心できる行き先を、民衆と共に生き、そしてそれ故に人の死の現場では聖化された存在となる寺の僧侶が導師となって保証してくれることが大切であった。
現況は、民衆もまた安心できる行き先を渇望する状況にない。大村教授が指摘するように、高齢社会となり、高齢化が家族分散の時代を迎えた家族、それを支援する地域社会の負担となっている。また近代合理主義が、あの世への夢と憧れを奪い去っていっている。
他方、僧侶の側にも、儀礼を執行するものの、確信をもって安心できる行き先を示すことができないでいる。寺は民衆の生活に密接していないし、人の死という危機を差配する者として民衆の中で聖化された存在とは認識されていない。
こうして見れば、葬祭仏教の環境は極めて厳しいものがあると言わねばならない。
ある僧侶が、導師としてではなく、一会葬者の立場で葬儀に参列して、後席に座って葬儀の行われる様を見ていて 「読経は告別式の単なるバックグラウンドミュージックに成り下がっていることを実感した」 という感想を寄せた。
また、導師として葬儀に臨んだある僧侶は、 「遺族にも会葬者にも葬儀に対する緊張感が欠けている」 と嘆いたが、問題は遺族や会葬者側の意識だけにあるのではない。今や導師たる僧侶にも緊張がない。
こうして仏教葬儀は、ある葬祭業者の言を借りるならば「感動のない葬儀」の代名詞となりつつある。
では「感動ある葬儀」というとどういうものを言うのであろうか。従来の一般的な(あくまでも)仏教葬儀に対して、生活者がもの足りなさや、わからなさ、そして退屈、不満を感じていることは確かである。民衆の日常生活と寺が疎遠になっただけでなく、家族の死者の弔いが(葬祭仏教の提示した)供養として行われることが薄くなってきていることもある。だから、お経が「異言」の如く聞こえ、参加できない層が増えてきている。
だが私は、近年の葬祭業者による「感動つくり」にも危うさを覚えている。
初期の頃は葬祭業者も無宗教の葬儀にとまどい、「あんなのは葬儀ではない」「祭壇で利益を得ているのに祭壇を使わない葬儀などは自己否定のようなものだ」と悪評だった。
しかし、近年は「変にお寺さんがいないほうがいい葬儀をつくれる」みたいな、自信のようなものが葬祭業者の一部に芽生え始めており、これを危惧する僧侶も少なくない。
その一部の葬祭業者は、 「宗教では感動を作れない。感動は自分たちの演出で作ろう」 とし、宗教儀礼を採用するにしても演出プログラムの一部と位置づけようとさえしている。 婚礼披露宴のスポットライトを浴び、司会者の涙や感動を促す、畳み込むような司会者の美辞麗句によって音楽と共に盛り上げる、両親への花束贈呈の儀式のようなものを、葬儀用に脚色変調し、とってつけたような暗い音調で悲しみの涙を煽るような司会での演出が幅を利かし始めている。しかし私には、感動を煽るような葬式が「いい葬式」だとは思えないのだ。
故人の人となりを葬式ではきちんと提示する必要がある。その意味では、どんな人が亡くなろうと、1セット何十万円の祭壇を飾って「これが葬式です」というスーパーの安売り商品のような葬式販売は否定されるべきである。
僧侶などの宗教者が、そして葬祭業者が、亡くなった人に即して葬儀を執り行う必要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。むしろ、まだまだこの点が不足しているだろう。
しかし、「個性化」を売り物にした商品化、感動を売り物にした商品化も危ういのだ。いき過ぎもまた警戒しなければならない。葬祭業には、サービス業とはいえ、そうした危うさがついて回っていることを、専門家と言われる人は知らねばならないと思う。
死者の死の固有の事実とそれのもたらす近親者のグリーフの現実を、それをステレオタイプ化してとらえても、過剰に演出してもいけない。この事実、現実に対して、人間としての共感をもって向き合う場、それが葬式のあるべき姿ではなかろうか。
近年の死と葬儀の危うさは、もう一つ、近親者がその死を前にして冷淡なことである。
私は「死者の尊厳」ということを、最近痛切に考えるようになってきている。葬儀が遺族がなすグリーフワークとして適切に行われるためにも、葬儀では死者の尊厳を明らかにすべだろうと思う。
仏教が日本の民衆に受け入れられたのは、民衆一人ひとりの死を尊いものとし、その救済を唱え、行じたからではないのか。
その人の死を尊いとするのは、その人のいのちが尊いということと同義である。反対にその人の死に冷淡であり軽視することは、その人のいのちに対する軽視である。そう断じていいと思う。それはどんな人がどんな状態で亡くなった場合でもである。
葬儀について、その意味づけに対してさまざまな議論がある。
社会性―それは他の機会、手段によっても代替可能である。人と人の付き合いは大切であるが、そして、しばしば人の死において現実が露わにされるものであるが、生きている者同士の関係であれば、やり直しはできる。
宗教者に多いのは布教の機会、伝道の機会、聞法の機会とするものである。それだって代替可能である。信教の自由の世に生きるわれわれが、何も葬儀の機会をその宗教宗派の教えを学ぶときとしなくともよい。これは仏教に限らずキリスト教でも言えることだが、こうした論理づけは、しばしば生きた人間に係わるべき宗教が死者に係わることの後ろめたさからきている。何で後ろめたいのか。
私はただ一つ、その人の死の尊厳に対峙することこそ重要であると思う。このことが、葬儀で「失われてはいけない」ものではないだろうか。そして、葬祭仏教の退潮は、この大切なことの軽視と深く関係しているように思う。
私個人のことで言えば、仏教信者が少なくなることは、仏教徒でない私にはどうでもいいことである。無宗教葬が増えても個人的には何の問題もない。
しかし、日本において葬祭仏教がもっていた文化的位置づけは、ホトケになると言い、いのちの源である世界に還ることであると言い、表現はさまざまであるが、葬儀の機会に死者の尊厳を断固として明かしめたことである。また、その人の死による家族の喪失の深さに比例するかのように、「供養」と言い、弔いの仕組みを提供したことであるように思う。
寺側の人間が葬祭仏教の退潮を理由づけるときに、それは家族や地域のコミュニティの崩壊に求めるべきではないだろう。それは客観的な社会変化であり、現実を左右していることは事実ではあるが、寺としての自覚的なものではない。求めるべきは、民衆との接点が葬祭、つまり人の死を弔うことであることを些事とし、そのもつ意味の大きさを自覚し得なかった問題である。退潮の危機に面して、その財政的基盤の喪失の危険を感じ、葬祭仏教のもっていた大きさに少し思いを寄せ、不安を感じるようになってきたが、これは主体的自覚としては遅すぎたものである。
個々の僧侶・寺の中には、人の生き死にの現場にあって、対峙し、苦悩していた人はけっして少なくない。過去の歴史にもいたし、現在も少なからずいる。それはよくわかる。そうした目立つことのない多くの僧侶の真剣な営みが、民衆の葬祭仏教への信頼の底を支えてきたのだと思う。
だが教団は何をしたというのだろうか。そうした僧侶を支える教学や儀礼を提供しただろうか。
ある宗派の儀礼は、かつて民衆の中に分け入り、その死に際して死者に添い続けたありさまを彷彿とさせるが、それを現代においては1時間の儀礼の中に再現して見せるだけの手抜きになっている。儀礼はその裏にあるものを象徴する。その象徴すべき実質を失えば儀礼もまた力を喪失するであろう。
葬儀の習俗が民衆の死に対するアンビバレンツ(相反する)な感情を残しているのに対し、ある宗派は、近代的合理性で切って捨てている。民衆の死を前にして右往左往することによって生まれた習俗に、その心情に分け入り、共感することなく断罪するだけでは民衆の心に訴えないだろう。
所詮、教団の教学や儀礼とは独立して発生し、民衆の中に定着した葬祭仏教である。その再生も教団の教学や儀礼とは別のところで行われるしかないのいかもしれない。
都会の宗教的浮動層において仏教葬儀が減少していることは、そのこと自体が寺にとって問題ではないだろう。また、宗教的浮動層の仏教葬儀市場の獲得のために、偽僧侶紛いが暗躍したり、不透明な葬祭業者による僧侶斡旋も、ビジネスの世界にはありがちなことである。おかしなことは、いずれ賢明な消費者の指弾を浴び、淘汰されていくであろう。気に入らないことだが、社会の縮図と見れば、あって不思議なことではない。
しかし、問題は宗教的浮動層を巡ってのことだけではない。
地方や郡部にあって、一見磐石な寺檀関係を築いて見えるところであっても、胡坐をかいている寺ほど精神的には衰弱して見える。
寺というのは、「信教の自由」の観点から言えば、一宗一派のものである。独立した宗教法人である。
しかし、地域文化、地域社会からすればそうではない。パブリックな存在としてあった。地域というコミュニティの核であり、地域コミュニティに支えられて存在したものである。寺檀もそうであるが、もっと深く民衆の宗教心が支えた。これは宗派の違いを問わない。寺という存在のもつ普遍性である。 キリスト教は、明治維新以来の歴史において、今なお1%に満たない。欧米の近代文明、戦後はアメリカ文化の先兵として日本上陸しても、最近でこそ結婚式で軽薄にもてはやされるものの、コミュニティに根付かなかったのは、教えを教える者と教えられる者との対比でとらえ、民衆との相互関係を築き得なかったことにあると思う。
葬祭仏教とは、寺と民衆の関係が相互的に成立しているものであり、それ故に、文化、何よりも人の死をとらえる共通基盤を、日本人の間につくり出したものである。
人のいのちが単独で賄えないのと同じく、人の死も単独では賄えない。精神的紐帯とその柱を必要とする。それが文化としての死の装置である。その装置であった葬祭仏教の退潮は看過できることではない。
今、われわれの社会は新たな文化装置を必要としているのだろうか。仮にそうであったとしても、その核には葬祭仏教の原点から見直しての再生が不可欠であると思う。葬祭仏教の隆盛を期待はしない。しかし、葬祭仏教の再生なくして日本人は死の文化装置を獲得し得ないことは確実であろう。