葬儀のプロセスと機能

■臨終

 その第一は〈臨終〉であり、死の看取りである。
 これは死の瞬間だけでなく、ターミナル・ケアという、もう少し長い時間幅で理解するほうが適当であろう。ここには死にゆく本人へのケア、そして家族の看病と看病する家族へのケア、という問題があるように思う。インフォームド・コンセントが重要である理由の一つは、病名・病状をきちんと告知しないことが、本人と家族の関係が、その最後の段階において「嘘」に染まり、よりよい関係を築くことを阻害しがちであるからである。死が死にゆく者の孤独な営みになり、遺される者をもまた本人との共同的な営みとしてケアに参加できなくさせるからである。もちろん個々の状況はきちんと考慮される必要があるが、死という事態において愛する者同士の関係が壊れるようなことは避けられなければならないだろう。

■通夜

 第二は〈通夜〉であり、これは遺された者が死を受容することにおいて大切な機能である。
 死は法律的には医師が心停止をもって判定する(そのうち脳死をもって死が判定される時代になるかもしれないが)。医療の発達していない時代にあっては息の停止、体温の低下、死後硬直、腐敗と続く死後反応を見つめ、段階的に死を受け入れていったのであろう。また、死の認容とは身体的変化だけによるものではない。愛する者の死を認めることはしばしば苦痛を伴う。生き返ってほしいと願い、生きている者同様に死者を看病する。そうした必死の奉仕の末に次第に諦めと共に死を認容していくのである。法律的な死と遺族の心理における死の認容は時間的に必ずしも同じではない。このプロセスとして通夜は大切なのである。通夜はしたがって社会的儀礼と距離を置いた、本来は死者と身近な者だけの時間なのである。

■葬儀式

第三は〈葬儀式〉であり、死者をあの世に受け渡す機能である。
別な言い方をするならば、死者をあの世に受け渡すことによって、死者(の霊)と生者との新たな関係づけを図ろうとする試みである。精神的に死者と訣別が強いられる瞬間であり、死者への想いを集中する時である。
 キリスト教的に言うならば神へ死者を委ねる時である。神の前に悲嘆を晒し、神に愛する者を委ねることにより、神の慰めを受ける時である。

■告別式

 第四は〈告別式〉であり、これは社会的存在であった死者が社会にその死を告知し、人々が故人に別れを告げる時である。渥美清さんが、密葬の後に「お別れの会」をもったのは、まさにこの告別式を営んだのである。さまざまな関係者それぞれが死者と別れをし、遺族の悲しみへの共感を寄せる。この共感がまた遺族の悲しみを和らげる働きをする。また、告別式は故人なき後の遺族と社会との新しい関係づけを図る意味もある。
 最近の葬儀意識が宗教儀礼から故人との別れに中心移動していることは、葬儀式から告別式に重点移動していることでもある。また、この告別式は社会儀礼であるから、それぞれの別れと悲しみへの共感という機能がしばしば忘れられ、生前の業績を誇大に表示するものになりがちである。

■遺体の処理

 第五は〈火葬または埋葬(土葬)〉であり、つまりは遺体の処理である。腐食していく遺体をそのままにしておくことはできない。原始的な「葬」は遺体の処理を中心に発達したものである。遺体との別れは遺族にとって精神的に極めて過酷なものである。また遺体の処理が済まない間は、遺族にとって遺体は、亡骸であり死んだ存在であると頭でいくら理解していても、依然として愛する家族そのものであるという感情からは離れられない存在としてある。腐食して尊厳を失っていくことへの恐怖感といつまでも側にいてほしいという愛惜の想いが精神的に攻め合いをしている状態にある。物理的な別れ、死の事実認識は過酷であれ必要であるし、それゆえまたケアも必要とされる。

■喪

 第六は〈喪〉であり、グリーフワークと言われる機能である。仏教的には四十九日、一周忌、三回忌(満二年)と言われるものである。死別の悲嘆は遺体処理が終わるせいぜい一週間という短い意味での葬儀の期間において癒されるわけではない。死者を見つめ、悲しみを時間をかけて体験することによって悲しみの長いトンネルを抜け出していくのである。この長さも症状も故人との関係や死の状況により異なる。子供の死や配偶者の死はとりわけ過酷であるし、突然の死、若くての死はしばしば困難な状況を来す。

■死別の悲嘆

 死別の悲嘆を体験した人の日米比較調査がある。ここでは死別悲嘆の研究が進み、カウンセラーも充実している米国よりも日本のほうが概ね良好な結果が出た。米国に比べ家、地域の共同体の絆が強く、周囲により自覚的ではないケアが行われていることもあるだろう。一つの推論として「仏壇」の存在が注目された。仏壇の前で死者と対話し、悲しみをぶつけていることがグリーフワークに役立っているのではないか、というものである。これだけで安易な結論づけをすることは危険であるが、死者を見つめ、気がねすることなく悲しみを表出する場、関係、機会が必要である。同じ悲嘆の体験をもつ者同士の場を作る「生と死を考える会」の働きなどももっと注目されていいだろう。

■死の事実認識の必要性

 葬儀がこのようなプロセスと機能をもつのは、死というものの多面性、困難さに対応する知恵であったと思う。長い病気の末の死の場合には、事前に「予期された死」があり、本人も家族もこれと向き合い、臨終の段階には「医学的な死」「法的な死」があり、通夜の段階では死の受容をめぐって相剋し、葬儀式の段階で「宗教的な死」を体験し、告別式の段階で「社会的な死」があり、火葬の段階で「物理的な死」を体験し、長い喪のプロセスを通過することによって死別の悲嘆から回復にいたる。
 葬儀とは、このように見てみると、死の事実性を次々と遺族に突きつけていくプロセスでもある。葬儀の段階を踏むごとに、死が夢ではなく現実であることの認識を強いていく。したがって愛する者にとっては精神的には過酷なプロセスである。だが、これは必要なプロセスである。こうした曖昧さを取り去り、死の事実に向き合うことが大切なのである。
 死別の悲嘆への対処として最もよくないのは死の事実性を曖昧にすることである。悲嘆は病気ではなく、当然にも起きることである。したがって悲嘆の根拠となった現実に向き合い、悲嘆を表出することが死を受容し、悲嘆からの回復を促すのである。大切なのは悲嘆にある人を顧み、その悲しみに寄り添うことである。葬儀とはこのためにあると言ってもよいだろう。
 そして宗教の果たす役割とは、死別の悲嘆を曖昧にするものではない。人は死の現実から逃れられないものであり、しかし、死が終わりを意味するのではなく、その中にも希望があり、この悲しみに寄り添ってくれる存在があることを、死者と具体的な遺族の悲しみに則して、明確にメッセージとして伝えることにあるのではないだろうか。

■子供を葬儀に参加させるべきか

 欧米で議論されていることの一つに「子供を葬儀に参加させるべきか」ということがある。子供が望むならば参加させるべきだ、というのが解答である。「死は子供には理解できず、酷すぎる」という意見がある。だが、人は死ぬものであり、また、その死は愛する者に大きな悲しみをもたらすものである、という死の事実性を子供なりに理解させることは必要なことである。大切なことは事実を突きつけるだけでなく、寄り添うことである。悲しみを受け入れてケアすることが大切なのは、何も子供だけのことではない。

■人の死

 最近、死が疎まれ、隠された反動としてか、死の美化現象も見えてきた。死は人間にとって自然ではあるが美化されるものではない。一時はガンの恐怖に取り憑かれたが、ターミナル・ケアの進展から、痛みのコントロールは相当程度可能になってきた。だが、人間は尊厳ある死を望みながらも尊厳ある死を常に獲得できるとは決まっていない。老いの果てに眠るような幸福な死が全ての人に待っているわけではない。病気によってはいたしかたなく人格破壊に追いやられることだってある。さまざまな死がある。そして美しい死、尊厳ある死であっても遺された者の悲嘆がなくなるわけではない。
 死がもつ怖さ、悲嘆の事実が明確に認識される必要があるように思う。

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