共感できる葬儀式の空間を―失われいく宗教性を憂う
内容
■増える社葬の「お別れ会」
最近の社葬がワン・パターン化し、無味乾燥化した印象をもつのは私だけではないはずである。
何の式典らしきものも行われない。会葬者は受付で名刺を渡し、献花のための列につく。係の丁重な案内で祭壇前に進むと、大きな遺影と舞台一面を覆う生花祭壇。そこで献花をし、葬儀委員長や喪主に挨拶すると立食会場に案内される。見知った顔を見つけ談笑する。「葬儀に談笑とはけしからん」と言われるかもしれないが、「談笑」としか表現をしようがない風景が展開される。故人のことも、遺族のことも少しは話題になるが、そのうちお互いの近況やら業界のニュースの話題になる。
折を見て会場を去る。出口では幹部社員の見送りを受けて、記念品を受け取り会場を去る。仕事を済ませたという安堵感と何のために来たのだという空虚感がないまぜになる。
これが「社葬」だけの風景ではなくなりつつある。人の死の処理から猥雑なものが削ぎ落とされ、スマートに合理的に進行される。これが新しい葬儀のスタイルだというのか。
■演者と観客
別な葬儀でのことである。開式の案内の後、司会者が参列者に起立を促し、その日の導師・式衆を合掌をもって迎える。僧侶はしずしずと入場、祭壇前の席に着席し、司会者が「お直りください」と言うまで参列者は立ち続ける。柩や遺骨の入場のときならわかるが。
僧侶は葬儀式において特別な存在であり、これから行われる葬儀式は大切な儀式であることを参列者に認識させようとしているのだろうが、私はいつも違和感をもつ。
いつか葬儀後に司会者に「僧侶入場の際の起立・合掌の案内は不要ではないか」と話したところ、地元の仏教会からの要請だという。そうまでしないと僧侶の威厳は保たれないのか、葬儀式の重要性をアピールできないのか。暗澹たる気持ちになった。
知り合いの僧侶の意見を聞くと不要論が多い。葬儀式は遺族、参列者、僧侶が一体となって営まれるべきものであるが、あの起立・合掌・入場により、葬儀式がまるで舞台での芝居のように、僧侶という演者とそれを見守る観客とに分けられる感じがするからである。
その芝居もまた悪い意味での古典芸能である。観客はその古典芸能を見たくて来ているわけではない。劇場で行われる古典芸能であれば、見どころ、筋、演者のプロフィールなどが書かれたパンフレットを手にすることができるが、葬儀式ではそうした解説書が渡されることもほとんどの場合ないから、一部の熟知した古参の檀信徒以外にはちんぷんかんぷんである。
また演技も酷いことが多い。お経の音楽効果が言われることがあるが、聴くに耐えるものでないことが少なくない。音楽的才能を言うのではない。必死さがあればいい。しかし、僧侶の中には単に慣習に従って読経を順序どおり進めているに過ぎないような、人の死なぞどこにあるのだという感じの、まるで緊張感の欠けた場面を見ることがある。
僧侶による葬儀式が、かえって葬儀という厳粛な空間を退屈なものに変えていることもある。
■葬儀とはプロセス
葬儀式というのは、それだけで成り立っているわけではない。
人のいのちには終わりがある。その臨終を家族はさまざまな想いで看取る。今回の尼崎市・JR福知山線脱線事故によるように、出勤したと思ったら、突然の悲報を受けることもある。死自体を認めたくないという拒否感情にもしばしば襲われる。あるいは終末期に断末魔のような痛みの中にある人が死をもってしか安らげないというときもある。さらに老人が眠りの延長のように静かに終焉の時を迎えることもある。
そのようなさまざまな臨終を迎え、死者に対し、さまざまな想いを抱えた家族が死者の枕辺に集まり、僧侶の枕経に耳を傾け、死者へ想いを寄せる。そのときの遺族の気持ちは、か細く、危ういものである。僧侶のあげるお経の中身はわからなくとも、そこにかすかに死者の安寧への祈りを託す。
枕経を終えると僧侶と家族は死者の人生について、死者の臨終について、そして家族一人ひとりの胸の内を聴き、どうしたら死者のためのいい送り方になるか話すだろう。
不安に怯える家族の信頼の拠り所になろうとして、僧侶は一生懸命に家族の声に耳を傾けるだろう。 葬儀社との話し合いにも同席し、他の誰でもない、この死者の送り方、葬り方を家族と共に考えるだろう。
家族は死者のことを家族同様に真剣に考えている僧侶を信頼し、その僧侶の信じる世界に死者を託そうと思うようになる。僧侶の読経が死者のために、特別にあるという思いを抱くようになる。
納棺の時、家族は特別な想いで死者と対面する。いつまでも一緒にいたいが、送り出さねばならない死者に、家族として何をしてあげることができるかを自問する。愛惜と別離の悲しさに身を切れられる想いにある遺族に対し、僧侶は死者のいのちは無にはならないこと、家族の心のうちに生き続けること、死者のいのちが尊かったし、今後もそうであることを静かに語る。
僧侶自体の言葉は貧しくとも、その唱える経に仮託し、その想いが家族の心に響く。家族はそうありたいと願う。
通夜というのは、家族にとって死者と過ごす最後の晩である。家族の想いが死者に集中する。別れを惜しむ死者の友人、知人も集まる。その人たちの死者を惜しむ言葉は、家族を慰め、また、新しい涙を生む。僧侶の読経は人のいのちの無常なること、惜別の想いが極めて人間的なものであり、ここに悲しむことが自然で、かつ、家族には許されていることを、人の理として静かに、胸の奥に届く、言葉にならない響きをもたらす。
葬儀の日を迎えた家族は、死者を弔うべき日であることを悟る。喪服に身を包み、死者との別離についての想いは、悲しみだけではなく、畏れを伴ったものであることを思い知らされる。導師となる僧侶は、式の始まる前に遺族のもとへ足を運び、遺族の胸の内を聴き、共に弔うべく声をかける。
葬儀式が始まる。僧侶は後ろに座る遺族の心のどよめきを背に感じながら、これから死者に何をなすかを言葉短く説明しながら、宗派の定めに従い葬儀式を進行させる。だが、それはいつもの読経ではなく、その死者だけのために仏の前に捧げるものであることを強く自覚している。僧侶自らは自分がいかに弱く、頼りない存在であるかを知っている。僧侶は自分の権威によるのではなく、言うなれば仏の権威により、そして死者のその人生の尊厳と遺族の想いを背に受けて、さらに集う人々の死者への想いを受けて、葬儀式を執り行う。僧侶だけの行為ではなく、葬儀式に参列する人々の共同の行為として、その弔いの想いを集約させて式は進行する。
この僧侶を牧師、神父と、仏を神と言い換えてもそれほどの差異はないだろう。宗教の差異も宗派の差異もそれほど本質的なものではないだろう。だから宗教宗派がどうでもいいことではなく、いのちへの深い共感によって成り立つ宗教性が必要なのだと思う。
■葬儀式とは
葬儀式を通じて、参列する者は知る。人のいのちの尊いことを。人のいのちの有限なることを。人のいのちはそれでも終わりでないこと。人のいのちは心の中につないでいくべきことを。そしていま一人の愛すべき人を悲しみのうちにも諦め、送り出すべきことを。
人のいのちがどんなにも重いものであるかを遺族、参列者、そして僧侶も葬儀式に連なることで実感する。それは悲しみであり、傷みであり、さまざまで未整理な想いであるが、このいのちの終焉に出遭っている、立ち会っていることを実感する。それは心にとっては認めたくないものであったとしても、事実として突きつける。参列する者は裸でいのちと対峙することになる。
子供を葬儀に参加させるべきということは、退屈な読経を体験させることにより、人生には退屈なこと、耐えねば仕方のないことを知らせるという意味ではない。一つのいのちがかくも重いものであること、それが失われることがかくも痛切なること、しかし、それを受け止めて人は生きねばならぬことを、理屈ではなく、肌で感じさせるためである。
大の大人が涙を流し、叫ぶことがあるということ、そうした痛切な出来事があるということ、必死に祈ることがあるということ、それは愛する者の死がもたらすということ、それを伝えるためである。
■糾弾すべき宗教の売買
葬儀式を執り行う僧侶の斡旋を売買する業があり、僧侶に葬儀を斡旋した見返りとしたお布施のピンハネが組織的に行われている。寺檀制度の弱まりを背景としたものだが、許されることと許されないことがある。こうした行為は、もはや仏教でも宗教でもなく、無神論というよりも反人間的行為であると私は思う。
葬儀の無宗教化を嘆くよりも、こうした宗教の衣を被った似非行為、詐欺行為がはびこることのほうが深刻な事態であるように思う。
宗教者が葬儀という場面の何たるかを理解せずに、葬儀において葬儀式という宗教性が求められてきたこと、自覚的か否かを問わず、現に求められていることの意味の不問がもたらしたものであるように思う。
葬儀で求められている宗教性とは、誤解をおそれずに言うならば、既成宗教内の論理ではない。いのちの、しかも一般論ではなく、固有のいのちの尊厳を体験するということである。それが否応なく迫られるのが葬儀という出来事であるように思う。