葬儀と習俗の問題 ―日本人の死に方の過去と現在―

■はじめに

 今回はジャーナリストとして12年間葬送の問題を見てきた立場から「葬儀と習俗の問題」をお話したいと思います。

 最近は死について語られることが多くなりましたが、私が雑誌『SOGI』を創刊した頃は、まだ死についてマスコミで取り上げられることは多くありませんでした。
 私はキリスト教出身ですが、テーマとして葬儀を扱うと言ったら、キリスト教の関係者から「仏教をやるのか」と言われたりもしたものです。雑誌を出せば「変な雑誌を出した」とマスコミから取材に来たこともありました。当時から比べると死、葬送を巡る状況も一変したと言えるでしょう。
 最近は様子が変わってきて、「死はタブーだった」と言うと、若い者から「実感がわかない」と言われる始末です。新聞やテレビで、かなり死の問題が露出しているので、若い世代は死が隠されているとはそんなに思えないようです。そのあたりに世代のギャップがあるように思えます。そういうことですから本日の葬儀と習俗の話は古い話が出てきて、かなりギャップのある話になるかもしれません。

 今回の主旨として、次のように書かせていただきました。
  「多様化」「自由化」「個人化」の名の下に、日本人の死を受け止める文化装置である葬式は、いま社会的コンセンサスを急速に失いつつある。都市部においては高齢者すら「葬儀がわからない」時代に突入している。葬儀のプロセスと習俗を、過去と現在を比較しながら点検し、日本人は死にどのように対処しようとしてきたのかを問い、いわば「死に方を忘れた」今日の日本人の葬送の問題点を考える。

   現在葬儀に関してかなり多様化が見られます。「お別れ会」が流行っていますが、これは告別式の独立形態です。大正期に「告別式」が登場してきたとき、当時の僧侶はそれを「耶蘇っぽい言葉だ」と言ったそうです。今は「告別式」という言葉自体が古くなって「お別れ会」と言い換えられる時代になりました。

 元来、日本(とは必ずしも限定できないが)の葬儀は、コミュニティ―共同体―が中心となって行うのが特徴でした。しかし、今日では葬儀の担い手が個人化してきています。葬儀にもかなりその人らしさ、個性が現れるように変わってきました。
 昔「葬儀のことはわからなかったら年寄りに聞け」と言われたものですが、都市部においては高齢者さえも葬儀のことがわからなくなってきています。最近よく公民館や消費生活センターから葬儀や墓についての講演を依頼されるのですが、ここにはお年寄りが多く集まります。60代・70代の方が中心です。その人たちは自分の葬儀について聞きたくて来ているのです。その人たちに葬儀について聞くと、ほとんど知らない。昔と違って、今のお年寄りは80歳未満の方々は「戦後派」なのです。戦後、都市化で多くの人が地方から都会に来ましたが、若い時ですから地方の習俗についてもよく知らない。都会に出てくれば近所のお葬式を手伝うでもない。手伝うと言っても受付くらいですし、ほとんどは焼香に参加するだけですから、わからなくて当然なのです。

 1960年代から70年代にかけて、日本の葬儀は大きく変化しました。葬儀の運営の中心はコミュニティから葬祭業者に替わり、共同体の中で伝承されてきたさまざまな習俗がそこでぷっつり切れてしまいました。担い手が葬儀社となり、葬儀の習俗は、葬儀社から教えられて、遺族は消費者として行動する形になったのです。

1.日本人の死の現況

 日本人は死にどのように対処してきたのかを見る前に、まず日本人の死の現況についてお話しておきたいと思います。

(1)死亡者数・死亡率

 01年の年間死亡者数は97万人でした。死亡者数は、戦後長く70万人台を推移していたのですが、それが80万人台になり、そして今90万人台にあります。社会の高齢化につれて死亡者数が増えてきているのです。しかし、国立社会保障・人口問題研究所の予測では、もう100万人を突破しているはずなのです。それがここ2年くらい足踏み状態にあります。これは予測より高齢化の伸びのほうが大きいということを意味しています。人口動態の推計によりますと02年は01年より8千人多い、97万8千人です。まだ100万人には到達しません。

 死亡率は対千人比で7.7人です。これは国際的には非常に低い比率です。よくこれからの時代を「多死社会」と言われることがありますが、高齢社会ですから絶対数は増えますが、率的には日本は世界的に「少子社会」だけではなく「少死社会」でもあるのです。
 戦後の日本は死亡率が急低下しました。乳幼児の死亡率がぐんと減り、平均寿命も上がってきました。

(2)死因

(1)悪性新生物 305,886人 (2)心疾患 148,186人 (3)脳血管疾患 131,812人 (4)肺炎 85,265人
(5)不慮の事故 39,454人 (6)自殺 29,333人 (7)老衰 22,137人

 死亡原因は、01年のデータで見ますと、悪性新生物(がん)が約31%でトップです。3人に1人ががんで亡くなっている勘定です。

 6番目の自殺は、この前年、前々年は3万人を突破して新聞でも大きく取り扱われました。10代での死因のトップは自殺ですが、最近は中高年の自殺が増え、全体の自殺者の35%を中高年の男性が占めている状況です。バブル崩壊後の不況、それに伴う社会心理的混乱等が精神的疾病として現象し、それが引き起こしたのだろうと思います。大変なストレス社会ですから、鬱病も多くなっています。
 自殺のほとんどがその人が意思的に選んだ結果ではないのです。社会的要因、精神的要因で追い込められた結果というのがそのほとんどです。これは統計ですから「自殺」と言いますが、私は自殺でなく「自死」という言葉を使います。「自殺はいいか、悪いか」という倫理の問題として見ると問題は逸れてしまいます。

(3)死亡の場所の推移

 死亡の場所(01年人口動態統計)

   病院 診療所 施設 自宅 その他
1965 24.6 3.9 — 65.0 6.4
1975 41.8 4.9 — 49.7 5.6
1985 63.0 4.3 — 28.3 4.4
1995 74.1 3.0 1.7 18.3 2.9
2001 78.4 2.8 2.6 13.5 2.7

 死亡の場所は、1965年は病院が24.6%でしたが現在は診療所を加えますと80%を超しています。自宅で亡くなっているのが65年の65%から今は13.5%まで下がっています。ここにデータとしてあげていませんが50年くらいですと8割ぐらいが自宅で亡くなっています。その時と今を比べると、ちょうど病院での死と自宅での死が逆転しています。

(4)死の概念の変化

 65歳以上の人口が全体に占める割合を高齢化率と言います。現在17・3%です。地方によっては過疎化が進み、20%を超えているところもあります。よく「高齢化社会」と言いますが、この「化」が取れて、すでに日本は「高齢社会」です。

 65歳以上の死が全体に占める割合は78・6%ですから、死亡者の4人中3人が高齢者です。80歳以上が44%で、これが最も多い。今この80歳以上の死亡者の比率が高齢化に合わせてどんどん高まっています。  このことはあたりまえのように思うでしょう。「年寄りが死ぬのが最も多くて何が不思議なの」と思うでしょうが、これは日本の長い歴史を見れば最近のことなのです。昭和の初めの頃は80歳以上で亡くなる方は全体の3~5%というところです。

 今は子供が成長し、少年期、青年期、成年期、壮年期、老年期があって、そしてその先に死がある―と理解されています。しかし昔の場合は必ずしも人生計画の最後に死があると理解されていたわけではありません。もし老年期までを人間の生全体として考えるならば、多くの人は最終期まで到達しない「途中での死」が多かったのです。

 中世来の無常観というのは「死はいつ誰に起こるかわからない」ということでしょう。日本人の伝統的な死の観念というのは老年期の先にあるものではなく、いつ、誰に訪れるかわからないというものでした。現実に日本人の死の状況というのは最近までそうだったのです。逆にいくら高齢者の死が全体の8割近くなったと言っても、20%以上の死はそうではないのです。不慮の事故も約4万人いますし、がんによる死が3割あることからわかるように死は年寄り以外にも、突然にも訪れるのです。しかし、突然の死、若くての死は今は例外のケースになりますからそういうものに対する対応力がなくなってきています。  こういうことをお話するのは、葬儀の習俗には死穢観念が色濃く反映しているのですが、死の状況の違いを理解しないと到底理解できないことだからです。

(5)死の環境の変化

 死の環境の変化ということでは、生活の場からだんだん死が離れてきているということです。先ほど死亡の場所の変化を見ましたが、かつては自宅で看取り亡くなることが普通だったのが、完全に逆転して、今では自宅で亡くなることがレアケースになっています。家で亡くなれば家族が皆死を直接体験するのですが、今はそうではありません。しかも、核家族化で死を看取る人間が少数化してきています。孫が祖父母の死を見るのは葬式の時が初めてというケースが多くなっています。しかも遠巻きして見るだけで直接遺体に触るわけではありません。

 葬儀そのものもかつては自宅で行われていましたが、今都内では10%を切るくらいになりました。葬儀は葬儀会館やお寺で行われることが多いのです。  自宅で死なず、送られるのも自宅ではない。死が生活の中から離れ、別処理化されているのです。葬儀の担い手もかつては地域共同体でしたが、これも葬祭業者に変わってきています。

2.葬儀と墓の変化

 次は葬儀と墓の変化について簡単にお話をしようと思います。

(1)火葬だけの葬式―遺骨と習俗―

 最近出てきているのが火葬だけの葬式です。いわゆるお葬式をしないのです。お葬式をしてもほんとうの近親者だけで済ませてしまうという形態が珍しいものではなくなりました。  これは未だ特殊ではありますが、中には拾骨をしないケースもあります。

 通常はお葬式をし、火葬をし、火葬場では焼いた後で拾骨をし、骨壷に遺骨を納めて帰ってくるのですが、その拾骨を拒否して火葬場に置いてくる遺族が出てまいりました。葬儀の簡略化もついにここまできたか、という感じです。

 これは法律的に非常に難しいことを含んでいます。拾骨(骨上げ)しないで置いてくることは刑法190条の「遺骨遺棄」にあたるのではないかと思われるかもしれません。しかし「遺骨」という概念は非常に難しいのです。墓地埋葬法では「焼骨」と言いますが、焼骨=遺骨ではないのです。遺骨には土葬して骨化したものも含まれますから焼骨だけが遺骨ではない。では焼骨全てが遺骨かと言うとそうでもないのです。

 日本では関西と関東では骨壷の大きさが違い、九州などその他は中間ぐらいと、骨壷にも3種類くらいあります。関西では喉仏(実際には軟骨なために火葬時に溶解するので第2頚骨)を中心としたところを拾っておしまいです。名古屋あたりでは胴骨も拾いますが東京のように足から順番に全部拾うのではない。各部位をほんのちょっとずつです。ほとんどが拾われないで残されます。

 遺骨を置いてくるだけの行為を指すと、関西の人間はみな遺骨遺棄しているとなります。しかし、これは習俗の問題です。習俗を罰することはできません。そこで行政は合理的なことを考えます。遺骨の概念として、焼骨の場合は骨上げしたものが遺骨であるという解釈です。そうすると習俗とも折り合いがついてうまくいきます。

 さて、一切拾骨をしないケースですが、拾骨をしなければ遺骨が存在しないことになります。火葬場では、家族が自分の意思で置いてきたものであり、後から請求をしないという念書をとって認めるしかない。今後はこういう形が増えるでしょう。あんまりいいことだとは思いませんが。  遺骨は物理的に言えばほとんどがカルシウムで、しかも800℃以上の高温で焼くのでDNAも残らないと言われます。では遺骨とは何だろう。私は、遺骨に象徴されているのは死者に対する想いであると理解しています。ですから、拾骨をしないというのは死者に対する態度が変わってきている証拠だと思うのです。

(2)墓への意識変化―墓の習俗―

 次は墓に対する人々の意識変化についてお話をします。

 民衆が墓をもつようになったのは応仁の乱あたりからだと言われています。平安時代初期は貴族が自分たちの墓がどこにあるかわからないくらいこだわりがなかったということです。貴族にしても浄土教の影響と共に墓が意識されたのではないでしょうか。古墳時代の豪族の墓をイメージしますから、日本人は墓を古くからずーっと大事にしてきたような感覚をもちが、あれは豪族の墓ですし、その後は薄葬が奨励されていきます。

 民衆が墓をもつようになったのは近世の少し前、応仁の乱あたりからで、江戸時代中期以降、寺檀制度の広がりの中で定着していったと考えられます。寺が檀家制度との関係のなかで、墓を管理するようになったのです。

 では今の墓形態として一般的な「○○家の墓」という家墓(いえはか)はいつ頃からか、というと、古くからあったようですが、一般化してくるのは明治の末期以降のことです。一つの墓石の中に複数の遺骨を収めるには火葬が進むのが条件になります。明治民法により家観念が強化され、○○家の墓は明治末期から昭和の初期にかけて大流行しました。

 今の和型の三段墓をキリスト教の人は「仏教の墓だ」と言いますが、仏教とはそう縁がなかったようです。江戸時代の福禄寿信仰の産物とも言われています。五輪の塔型は仏教のものです。

 家紋が入っているお墓をよく見かけます。日本人は伝統を大切にすると思われており、家紋はその象徴で、古くからあるように思えますが、家紋が入りだすのはせいぜい昭和40年代以降のことです。葬式で門標や提灯に家紋が入るのもその頃のことです。葬式や墓と家紋の結びつきは戦後の習俗なのです。その頃流行ったマイホーム主義にうまく乗り、葬儀社がサービスとして家紋を入れ出したものです。以前は仏の世界を現す円がついていたり、梵字の「阿」の字が刻まれていたのが、代わりに家紋になったということです。一種の世俗化と言ってよいでしょう。

 60年代の末から高度経済成長期には都市化の波に乗り、今までより単位が小さい、核家族でもつ「ミニ家墓」が出てきました。首都圏近辺では墓が増え、どんどん霊園が開発されてきました。

(3)墓の跡継ぎ―永代供養墓―

 「墓を買う」と言いますが、あれは借りているものです。ですからお墓を入手するときに支払うお金は「永代使用料」となります、「永代」とあるので、永続的に、ずっと借りられるかというとそうではありません。跡継ぎがいる限り期限を定めず使うことができる、ということです。墓を守る人間がいないと「無縁」ということになり、無縁墓として処分されます。

 99年に墓地埋葬法の施行規則の改正があり、無縁墳墓の改葬手続きが簡略化されました。だれも跡継ぎがいなくて無縁となった墓は、1年間掲示板を立てておいて、そして官報に公示して、だれも名乗り出なかったら撤去してよいことになりました。民法の制約を受けますから、即ではなく5年以上の経過は必要でしょうが。以前は2紙以上の全国紙に3回広告を出して、本籍地の調査をし、それでも連絡がない場合に改葬できる、とかなり費用も手順も大変でした。

 80年代末から出てきたのが永代供養墓です。新潟の妙光寺の安穏廟が有名ですが、いちばん初めは比叡山と言われています。永代供養墓とは「跡継ぎが不要な墓」のことです。お寺が続く限りその墓を守りますというものです。

 今までは個々の責任で墓は守られなければなりませんでしたが、それを寺の責任で守るというものです。80年代までは、子どもがいない人、子どもが娘だけの人は墓を継げないと言われていましたが、今は娘がいれば立派なものと言われる時代になりました。

 娘が結婚するともう墓は継げないと思われていましたが、今は大きな霊園へ行くと実家と婚家の墓を一緒に守る両家墓が見られます。墓石に「偲ぶ」とか「愛」という文字を刻み、家名が入っていない墓も見られます。これらを「無家名墓」と言います。  最近行政でも取り組んでいるのに「有期限墓」があります。

 永代使用とは「跡継ぎがいる限り期限を定めずに使える権利」のことですが、跡継ぎがいなくなればすぐに撤去されても文句は言えないわけです。有期限墓は30年なり50年なりの期限を定め、その間はだれも墓を守る人がいなくても存続します。期限がきた時だれか使う人がいるなら契約更新し、いなければ契約は満了ということで、遺骨は合祀墓に移され、以前の墓域は別の人が使えるようにします。ヨーロッパなどではすでに見られる形態です。

(4)散骨と樹木葬

 92年ごろから「散骨」が出てきました。散骨は遺骨を細かく砕いて海や山へ撒くことです。英語ではスキャタリングと言います。散骨は違法かどうかが一時問題になりましたが、今有力な解釈は「遺骨を捨てるのではなく、葬送を目的として相当の節度をもって行うならば違法ではない」というものです。「相当の節度をもって行うならば」ということは、「遺骨に対する国民の風俗としての宗教的感情を尊重して」ということです。

 具体的にはどうかというと、大体の合意ができているように思います。一つは、原型を残さず2ミリ以下に細かく砕くということ。もう一つは、他人が嫌がらない場所へ撒く、ということです。いくら遺骨がカルシウムで害がないといっても生活用水近くで撒かれれば、生活用水を使う人が嫌がるかもしれません。

 次は樹木葬についてご紹介しておきましょう。

 岩手県一関市で雑木林を保護する目的でお寺が山を買い、そこを墓地にしました。墓地にしたら自然破壊になるのではと思いますが、そこは違います。墓石や骨壷などの人工物を一切使いません。もちろんカロート(骨壷を納める部屋)も作りません。ただの山です。

 遺骨を埋めるときは、50センチほど土を掘って遺骨をその掘った穴に空け、土をかけて戻す。そこに低木の花木を植えます。そこは全体が墓地になっているので遺骨を砕く必要はありません。砕きたい人は砕いてもいいのですが、墓地として許可を得た区域なので、法律的には墳墓ですので、散骨とは違って砕く必要がありません。

 こうした形態の墓地が東京でできるかというと難しいです。東京の霊園条例はあくまで墓地を乱雑な形にならないように管理しようという規定になっています。墳墓の墓域の側には1メートル幅の通路がなくてはならない、排水についてはこう、という細かい規定があるのです。樹木葬墓地などは想定していませんから、こういう条例がある地域では造りにくいだろうと思います。今後はわかりませんが。

 このように、墓自体が大きく変わりつつありますので、墓の習俗も大きく変わっていくだろうと思います。

3.死の看取りの習俗

 次は葬儀のあり方を、過去と現在とを比較する形で見ていきたいと思います。

 「臨終」とは「終わりに臨む」ということです。したがって死そのものの瞬間ではなく、幅広くターミナルを指す言葉です。今「看取り」の担い手が変わってきていることは先に述べたとおりです。

(1)現在の死の判定

 今、死の判定は医師によってなされます。死の概念は、今までは心臓死のみでした。呼吸をしない、心臓の拍動がない、瞳孔の反応がないなど不可逆的停止の状態であるかを医師が判定するものです。最近はこれに脳死の概念が加わりました。脳死に関して新しくできた法律は「臓器移植法」です。  人工呼吸器の新たな開発により、脳死に至っても心臓を動かすことができるようになったことが脳死を生み出しました。科学技術の発達がもたらした新しい死です。誰にでも起こるものではなく、レアケースで1%足らずが問題となります。しかも、本人の意思と家族の意思がなければ脳死判定そのものが行われないことになっています。

 脳死判定は2回に分けて行われます。脳死と判定されるのは本人が予めドナーカードなどで生前に意思表示し、家族が同意したときのみです。脳死が確定した場合、予め申し出ていた範囲の臓器が提供される仕組みです。

 昔は、死の判定は現在の点とは異なり、プロセスでした。息をしない。硬くなる。腐臭が臭う。という段階を確認しながら行われたものです。

(2)死後の処置と習俗

 一般のケースで説明しましょう。

 医師により死が判定されたら看護師が点滴の管等を外します。この後、湯呑茶碗に水を入れて持って来てくれます。最期を看取った人が一人ひとり、綿棒に水を含ませめ、それで死者の唇を潤し別れを告げます。これが「末期の水」あるいは「死水」と言われる儀礼です。

 その後、看護師が全身を清め、体液等が外に出ないように処置する「清拭」をします。昔は「湯灌」をしました。時期としては座棺への納棺の際だったようです。湯灌にもいろいろあり、お坊さんや地域の手慣れた人がやったりしていました。昔の湯灌はこの世の穢れなどを洗い清めるという宗教的な意味と、もう一つは座棺だったので、それを通して関節を曲げ、仏衣を着せるためにやったという現実的意味があったようです。

 その後自宅に寝台車で搬送します。以前は葬儀会館で葬儀をやるにしてもいったんは自宅に戻し、布団に寝かせていましたが、今は自宅に寄らず直接葬儀会館へ、というケースが増えてきています。

 昔は自宅で亡くなると末期の水の後、「魂呼び」をやったケースもあります。昔の日本人の死の概念は、身体から霊魂が離れて行くことでした。魂呼びは、屋根に登ったり、井戸の底に向かって霊魂に呼びかけ、身体に霊魂が戻れば生き返るという再生を願う習俗でした。末期の水についても一つは別れの意味もありましたが、再生を願う意味があります。

 再生儀礼を行うということには、死に対し抵抗したさまだと理解することができます。死をすぐに受け入れるのではなく、何とか生き返らせようとする。死は家族にとってすぐには受け入れ難いということが根拠になっていると思われます。

(3)枕直し

 次にすることは「枕直し」です。

 病院から帰ってきても自宅で亡くなった場合でも枕直しをします。これは遺体を安置することですが、そのときよく言われるのは「北枕」。頭を北向きにして寝かせますが、これはお釈迦様が北に頭を向け、西を向いて亡くなった故事に由来すると言われます。神道では部屋に向かって頭を右にし、カトリックでは祭壇に向かい合うように直角にします。

 枕直しのとき遺体を屏風で囲みますが、上下反対にするので「逆さ屏風」と言います。死者の世界はこの世とは逆向きになっているから反対にするのだという理解です。もっともそれだけではなく、死というのは非日常ですから通常とは逆にするという理解もあります。

 枕直しの際に、枕元に小さな台を置いて「枕飾り」をします。仏教の場合は三具足です。香炉、燭台、花立てを置き、そこに水とご飯を供えます。ご飯は死者が使っていた茶碗に新しく炊いた白米を山盛りにして供えます。「枕飯」と言います。ご馳走の魅力で再生することを願ったとも言われます。

4.生と死の境界線としての通夜
(1)プロセスとしての死

 通夜は、一つは古代の殯(モガリ)の遺習とも言われます。昔は死者を死者として扱わず、亡くなって葬儀の前までは生きている者として扱ったようです。この期間は「生と死の境界線」です。昔はここまでが生、ここからが死、と死を点で捉えることができませんでした。現代のような個体の死、蘇生不可能な時点の正確な判断ができなかったという事情も反映したでしょう。死んだと思われても生き返ることもあったようです。

 古代のモガリは体が硬直し、腐り、最後には白骨化するまでの見守りのプロセスであったようです。

(2)通夜の食事の意味

 通夜では、生きているときと同じようにご飯を供えます。もう一つの通夜の意味は介護の延長でしょう。今まで介護をしてきたが、し尽くせなかった介護の最後の表われであると思います。

 通夜でのどんちゃん騒ぎは古代から歌舞などがあったようです。こちらの世界がいかに楽しいかを演出して生き返らせようという意味があったようです。ご馳走は、今は通夜の客に振る舞われますが、昔はまず死者にご馳走し生き返ってもらおうとしたものだったと思われます。

 また、死者との共食の意味もあると思われます。キリスト教でもミサ(聖餐式)ではパンと葡萄酒が使われます。葬式においても飲食は象徴的ないろいろな意味をもっています。死者との最後の交わりをすることにより、死者と別れる意味合いがあったと思われます。

 昔は白米はご馳走で、普段は食べられなかったものです。死者のためには特別に白米を炊いて供えました。枕飯には箸を1本立てますが、これは死を象徴しています。2本供える地域もあることから、私は昔は2本だったと推定しています。枕飾りの花立ての樒が1本など、死と1という数字が結びついた結果、儀礼化して1本に変わっていったのではないかと推定しています。

(3)グリーフプロセスへの配慮

 亡くなった死者を生者として扱ったのは、死の判定が容易にできなかったからだけではなく、もう一つ別の理由があるように思います。

 私は「遺族の死に対する認識に対しての配慮」という仮説を立てています。亡くなった者をすぐ亡くなった者としないというのは、今でも家族、近親者に見られる態度です。死亡判定が医師からなされても家族はすぐにはその死を認めることはできない。頭では理解しても感覚的に理解していないのです。死の事実を自分のものとして受け止めるには時間がかかるものです。また、苦痛を伴う作業です。

 遺族が家族の死を認識するにはある一定の時間が必要であるとのコンセンサスがあり、この間に弔問に訪れる客は平服でなければならならなかったとされる地域は多くあります。ですから、昔は通夜に喪服を着て行くことはありませんでした。香典も葬式のときに持参するもので(近親者は別ですが)、葬式に出られないために、事前に香典を届けるときは「お見舞い」と書いたという例も多く見られます。

 それが今のお通夜は「夜の告別式」となってしまっています。近親者が死者と充分に別れる時間を確保することがお通夜の意味ですが、弔問客を受け入れる儀礼となってしまっています。

5.葬儀の構造

(1)プライベートな時間とパブリックな時間

 私の解釈では、葬儀の構造は2つに分かれます。

 通夜までが別れの時間で、昼夜を通して介護してみたがやはり生き返らなかったと断念して葬式を上げて送り出すという構造です。通夜までがプライベートな時間、葬式はパブリックな時間と言えます。だから一般の弔問はプライベートな通夜にではなく、パブリックな時間である葬式に行くべきだとされたのだと思います。

(2)日本人の世界観(他界観)

 かつての私たち日本人の世界観は次のようにまとめることができるでしょう。

 「縁あってこの世に生まれ、コミュニティ―地域共同体で育ち、そこで生活を営み、死んでコミュニティに送られて自然に、あるいは浄土に帰る。その後そこで生者を見守る対象になる」

 自然や地域と親和して人の生死があり、その中に入っていくことだから、ことさら死を恐れず、受け入れることができたのではないでしょうか。

 今はコミュニティが崩れ、母体といえる家族も危うい状態にあります。1世帯平均3人を切り、1人世帯、2人世帯が増え、高齢者世帯も増えました。コミュニティに送られるという構造がなくなり、葬儀そのものが儀礼化し、通夜で死者と別れる充分な時間をとれず、送るということに関しては、送るべき先の他界という観念を失っているように思います。葬儀そのものが宙ぶらりんになってきているのが今の状況ではないでしょうか。

(3)葬儀当日の原型

 かつての日本の葬儀当日の流れは原型的には次のようなものであったと思われます。

 ①内葬礼 出立の膳  ②庭葬礼(露地式)  ③葬列  ④堂内葬礼  ⑤埋葬(火葬)

 ①の内葬礼とは、家での葬式で、家族は最後のお膳を囲み、別れの食事をします。これを名古屋あたりでは「出立ちの膳」と言いました。

 葬列に出立する時に、庭へ出て庭葬礼(露地式)をしました。これは告別式の原型のようなものです。庭に出て皆の別れを受けました。  そして関係縁者が葬列を組んだのですが、この葬列が葬式のメインイベントでした。それが今は告別式あるいはお通夜がメインイベントとなってしまっています。

 葬列とは、関係者が死者との関係において役割を担って一緒に送り出した参加型のものでした。葬列を組んで寺へ行き、寺で堂内葬礼―お経をあげてもらい、そして火葬あるいは埋葬(土葬)となりました。

 いろんなパターンはあるものの、原型的には以上のようなものであったでしょう。  今は葬列がなくなったので、内葬礼か堂内葬礼かどちらかに収束しています。その葬列の部分が告別式に変わりました。元来、祭壇は告別用の装飾壇で、それは柩を運ぶ輿を象徴しています。焼香をする前机と一体化して発展し、現状の宮形祭壇になりました。

 埋葬とは法律的には土葬のことです。「埋・火葬許可証」と言われていましたが、最近は土葬がないため「火葬許可証」と言われます。この許可証は、火葬場で「火葬済み」との証印を得て、納骨の時に墓地管理者に提出します。

(4)出棺儀礼

 出棺の時に、関西では「茶碗割り」と言って、本人が使っていた茶碗を割る儀式をします。 「死霊が戻らないように」という意味合いもありましたが、家族に対して死者への断念を強いた意味もあったと思われます。断念して葬式を出す、もう戻ってこないと家族は自分に言い聞かせる意味で茶碗を割ったのだと思います。

 出棺する際に柩を「釘打ち」して封じます。これを石でするのは、石には死霊を封じ込める力があると言われていたからですが、これも断念という意味があるだろうと思います。

 平安時代は柩に荒縄を巻いていたようです。ひっくり返って、遺体が外へ出ることを防ぐためでしょうが、今の棺は印籠型になっていて、蓋が簡単には開かないようになっていますから、機能的には釘打ちをする意味はありません。死霊を封じ込めるという意味ならやらないほうがいいと思いますが、家族一人ひとりがお別れの意味で断念を強いてやっているのならばそれはそれで解釈がつくように思います。

(5)穢れとその対処

 昔、葬列のとき柩を担ぐ人、土葬のときに穴を掘る人、湯灌をする人に、食事をたくさん食べさせ、酒をたくさん飲ませたとあります。死の穢れに染まらないように、酒や食事の力で対抗させようとしたのだと思われます。現在は悪評の高い慣習ですが、葬儀社の社員や火葬場の職員、霊柩車の運転手へのチップは、これが原型だったと言えます。

 江戸期の都市部では、土葬と違って火葬の場合は決められた火葬場でやるようになっていました。火葬の専門の職人が現われ、穢れに染まるということから社会的差別を受けました。この差別は、残念ながら今でも生きています。

 火葬では、拾骨の際2人1組で骨を挟み、骨壷に入れます。これを「ハシワタシ」と言います。昔、地方によっては、男性と女性が対になって1本ずつ箸を持ち収めるところもありました。箸渡しは「三途の川の橋渡し」のハシの音を重ねたものです。

(6)葬儀の会食と喪服

 葬儀が終わったら最後に会食をします。

 これはいくつかの意味が一緒になっています。一つは死者との別れの共食、2つめは手伝ってくれた人へのお礼、もう一つは初七日を繰り上げた法事のお斎(おとき)の席です。関西では「仕上げ」、東京では「お清め」「精進落とし」、その他「忌中祓」「忌中引」「お斎」などと言われます。

 死装束は修行僧の旅姿を模したものです。死者は極楽浄土へ旅をして行く、あるいは仏弟子とされた死者がこれから修行をしなければならないという姿を模したものです。

 これは白です。元々日本の喪服は白でした。黒は明治30年代の皇室の葬儀のとき、欧化政策の一環として取り入れられたものだと藤井正雄先生に教えられました。ですから黒と白が葬儀の色だというのは、少なくとも明治40年代以降の話になります。戦前の葬列の写真を見ますと、遺族は白で、その他の人は晴れ着を着ていました。今のような仏事の礼服の慣習はありませんでした。

(5)喪

 喪服は遺族が喪に服すから着るものです。死者に対して悲しみをもってそれに服する期間が喪です。服喪の期間は、本来は人により、対象により違ってくるものです。儒教の影響下で、父だから何日、子だから何日などと明治の初期に定められましたが、それからいい加減脱していいと思います。規定として定められるものでなく、個々の関係で喪の期間は違っていいと思います。

 忌中は四十九日を意味します。死を忌むことを表す「忌中」でなく、私は「喪中」1本でいいと思います。忌みの中にある、というのは死穢観念を体現しているので、今後は改めるべきだと考えています。

 しかし、かつて「忌む」という言葉を使った感覚は理解しておくべきでしょう。一つは死のリアリティを生々しく体現している期間が四十九日だということです。死をきれいごとで終わらせるのではなく、死との生々しい感情の中に遺族が置かれている、グリーフの真っ只中に置かれている、という意味において四十九日は重要です。

 喪は、仏教だけではなく、いろいろな民族によって30日とか50日などの期間が習俗としてあります。仏教が唱えたから四十九日は守られているのではなく、仏教の四十九日と遺族の、死者に対する感覚とがうまくマッチしために四十九日は守られ、民衆の中に定着しててきたのだと思います。  インドで四十九日、中国で百カ日と1周忌と3回忌が加わり、十仏事となりました。日本に来て7回忌、13回忌、33回忌等が生まれました。

 日本仏教が3回忌の次に7回忌をもってきたのは偉いと思います。3回忌までは死者との関係はまだ生々しいグリーフプロセスにありますが、7回忌頃になるとメモリーに変わってくるからです。中途半端な5回忌などあったらどっちつかずで遺族の感情は迷ったと思います。7回忌には赤いロウソクを立てることを見受けることがありますが、そこには明らかに遺族の心理的な変化が表われているように思います。

   私は、日本の葬儀習俗を遺族のグリーフプロセスという視点から見直してきました。しかし、今、死を受け入れる文化装置として機能してきた葬儀あるいは喪が形骸化してきています。グリーフプロセスという視点からも実に危うい状況にあるという認識をもっています。

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