内容
■息子と母親
「供養」ということを考えるとき、私には忘れられない光景がある。
それは死んだ友人の母親の姿である。
話をその友人(浩介)の突然の死の出来事から始めようと思う。
浩介は母一人、息子一人の生活。とはいっても彼は母を一人、関東近郊の郷里に残し、東京に出て働いていた。
彼は一日の仕事を終えて退社後、急病に罹り、救急車で病院に運ばれたが、そのベッドで、誰の見守りもなく、あっけない最期を遂げた。
急遽かけつけた母親は、もの言わぬ息子と対面することになった。
傍で私はその様子を見ていたが、母親は取り乱すことなく、静かに息子と向き合った。そっと手を顔に触れ、その目、額、頬、顎、とさするように触っていった。最後に唇に指を這わせた。
その間、一言もなかった。彼女の目は穏やかで、まるで乳飲み子を愛でるかのようであった。
続けて友人の揃えられた手をとり、指1本1本を数えるように握りながらさすっていった。
かけられたシーツを静かに取り去り、腕、肩、腰、脚、足指とゆっくりと確認していく。そして息子の肩を抱き、しばし目を閉じていた。
母親が息子に触れ合っている間、私には時間が止まっているように感じた。濃密な、ある種官能的な空気が殺風景な霊安室に漂っていた。
彼女は一言も発しなかったけれど、私は彼女が溢れる言葉を息子にかけていた様子がうかがえた。
しばらくして肩を起こした彼女は、再びシーツを静かに息子にかけ、両肩がきちんと覆われるように整えた。そして息子の頬に接吻した。
私は、母親の動作があまりに自然なので、部屋を出て、二人きりにすべきだったということすらも忘れてしまっていた。
母親が息子を愛しているとはどういうことなのか、その深く濃密な関係が私の心に迫った。それはけっして排他的なものではなく、ごくごく自然なものであった。息子に対してそうすることがいかにも当然であるという自然な振る舞いであった。
立ち上がった彼女はじっと息子を見ていたが、その姿勢のままで「お世話になりましたね」と私に礼を言った。そして私に向き直り、「浩介は私の息子でした」と、はっきりとした声で言った。私も、「浩介はあなたの息子でした」と言った。
友人である浩介と私は、仕事の同僚という関係を超えた間柄であった。彼から母親の話はいつも聞いていただけではなく、休みの日には彼の実家に行き、泊まってきたこともあった。だから親子のことはよく知っていた。
でも、この霊安室での母と息子の情景は、私の想像を遥かに超えた、より濃密なものであった。
母親であること、息子であることのもつ意味を理屈ではなく、深く心に感じさせる出来事であった。
■浩介の葬儀
葬式は近所の寺を会場にして行われた。
会社の同僚たちが駆けつけ、一人ひとりが自分の役割を見つけ、手伝った。仲間の顔は、驚きのため、いずれも蒼白で、目を赤くしていた。すすり泣きがあちこちで起き、庭のかげに逃げこんで号泣する者もいた。
彼の学生時代の友人もたくさん顔を見せた。花束を抱えてきた女性の友人もいた。その花は彼が眠る柩の上に置かれた。
私は葬式に参列した経験はあったが、葬式の渦中に立ったのは浩介の葬儀が初めての経験だった。だからそう感じたのかもしれないが、あんなに痛切な感情が支配した葬式は初めてであった。
彼の学生時代の友人も、会社の同僚も、皆、彼の死自体が信じられなく、驚愕していたし、心を傷めていた。まだ20代の死であったし、しかも急死であったので、皆が喪失を受け入れられず、精神的な混乱の中にいたように思う。
そんななかにあって親族席は静かだった。ひっそりしていた。いつもは一人くらいは声高で話す人もいように、そうした人はいなかった。親族席を覆っていたのは虚脱感だったように思える。肩を落とし、そして一人遺された母親を心配していた。
母親は終始穏やかであり続けた。微笑はなかったものの、優しさを身体で表現していた。
友人たちが涙を流しながら「悔しいです」「残念です」とお悔やみを言うのに対し、静かに、「浩介がお世話になりました」ときちんとした声で、優しく礼を返していた。
それは無理をしている様子でもないのだ。ほんとうに自然体なのだ。そして息子に対する愛情と母親としてのやわらかな勁さがにじみ出ていたのだった。
通夜の晩、皆が帰った後、私が遺体を守ります、と申し出ると、「ご心配なく、私、浩介の母親ですから、今夜は一緒に寝ます」と、これも静かに、しかし強い意志で言った。
■浩介とのお別れ
翌日の葬儀の席でも彼の母親は終始静かで、穏やかだった。
出棺前のお別れのとき「どうしますか」とたずねると、「お友だちの方、皆さんにお別れしていただけないかしら」と、言った。
目を真っ赤にした友人たちが一人ずつ彼と対面してお別れした。私も最後尾で彼と対面し、別れを告げた。といっても、別れる、という実感があったわけではない。だから彼に告げる言葉がなかった。胸に組まれた手の上に右手を重ねた。
最後に母親が柩に近寄った。友人たちが遠巻きにしている。緊張した空気が流れるなか、彼女は静かに両手を彼の手に重ねて呟いた。
「いままでありがとう」と、私には聞こえたような気がする。先に逝った息子を恨むでもなく、遺されたわが身を嘆くでもなく、ひたすら優しく息子に声をかけていた。
寺の門前に停められた霊柩車までの道のりは、会社の友人3人と学生時代の友人3人が柩を運び、それを皆が見送った。このときはある種騒然としたように記憶している。それまで皆が堪えていた悲しみ、非情な運命に対する憤怒のようなものが堰を切ったように噴出し、彼の名を呼び、泣き叫ぶ声が満ちた。私の目からも涙がこぼれた。そして止まらなかった。
このとき浩介の母親がどうであったのかは記憶にない。自分の嘆きでいっぱいいっぱいだったからだ。
火葬場での骨拾いの情景は記憶にある。
最初に喪主として骨を拾った母親は、親族や友人たちが順に二人ずつ組になって骨を拾うのをじっと見つめていた。そして最後に、火葬場の職員を制して、残った骨を一人で拾い、骨壷に収めた。職員は何か言いたげであったが、黙って彼女がするがまま任せた。
最後の一つを収めた後、そこにいた皆に対して深く頭を下げ、「浩介のために、ありがとうございました」と、言って、また深く頭を下げた。
■四十九日
四十九日は東京でもたれた。
「お友だちの皆さんに来ていただきたいから」というのが母親の意思だったからだ。
私の目にわかるくらい母親は痩せていた。心配してたずねた私に「心配ないわ。浩介が一緒だから」と答えた。でも少し不眠気味だとも言った。「浩介のことを考えていると、眠りそびれて、いつの間にか朝が来ているの」
医師に導眠剤を処方してもらったら、と勧める私に「あの子には私しかいないのだから、息子のために親としての私ができることは、いつも思っていてやることだけだと思うの」と言って、優しく微笑んだ。
四十九日の集まりは、葬式のときのような緊張感は少し薄れ、やわらかな雰囲気でもたれた。友人たちも彼の思い出を語り、笑いも洩れた。母親も時折微笑みを浮かべて聞いていた。
同期の女性が立って言った。「浩介君はまじめだったから、いいな、とは思っていたんだけど、仕事以外には一緒じゃなかったんです。でも、きょうの皆の話を聞いていると、浩介君てくだけた面もあったようだし、こんな彼だったら、思い切ってアプローチすべきだったって、いま、すごーく後悔しています」
大爆笑だった。母親も笑っていた。
会の最後に母親は立って挨拶した。「きょうはほんとうにいい会でした。お友だちもたくさん来ていただけて。浩介の未来の花嫁にもお会いできたし(笑)、ありがとうございました。浩介の葬儀のときは、頭の中は実はパニック状態でした。息子のことしか考えられず、息子のことしか見えず、皆さんにはほんとうに失礼したことと思います。
浩介は私の宝でした。気が小さく、外面はいいのですが、家の中ではやんちゃでした。でも、人に対する優しさはもっている子でした。
お葬式のときに感じたのは、私が息子を愛するのは当然ですが、皆さんも息子、浩介を愛していてくださったということです。とてもうれしい想いがしました。 浩介の供養のために私ができることは何か、と考えたとき、また、浩介に皆さんを会わせてやりたいと思いました。きょう皆さんが集まって浩介のお話をしていただき、浩介もきっと喜んでいるに違いありません。淋しがりやでしたから、皆さんの心の中にいられることを喜んでいると思います。
短い一生でしたが、浩介は幸せだったと思います。親として悔いはありますが、皆様に愛された人生だったのですから。また、そう思って私は浩介と一緒にこれからも歩んでいきたい、ときょうは思いました」
■一周忌
彼の一周忌は、郷里の山村で営まれた。
母親の要望で、私は前日からその村に入り、彼の家に泊まることになった。
電車とバスを乗り継いで、彼の家に到着した。母親は、四十九日のときと比べると少し健康を回復した様子だった。
「遠くまで来てくださって、まあまあ、ありがとうございます。浩介も喜びますよ」
彼の家は築50年以上にはなるのではないかと思われる大きな旧家であった。広い玄関には明るい花が活けてあった。
「久しぶりなのよ、浩介が死んでから初めてなのよ、この玄関にお花を活けたのは。いつまでもじめじめしていると浩介に嫌われるんじゃないかと思って、きのう思い切って活けてみたの」
玄関の土間を上がると広い居間があり、奥に仏壇が据えられ、その前に彼の写真と遺影が置かれていた。仏壇にも一輪の黄色の花が供えられ、ロウソクが点されていた。
「まず、浩介君に挨拶させていただきます」
「うれしい。浩介も喜ぶわ」
浩介の顔は葬儀のときのものだった。1年前と同じなのだが、私にはとても懐かしい感じがした。彼と遅くまで飲んで酔っ払ったときのことや、仕事で彼が私に文句を言ってきたときの様子や、彼が壁に寄りかかって煙草をすっていたときの様子やらが昨日のことのように思い出される。そして悪夢のような彼の急死とその後の嵐を思い出していた。
写真の前の桐箱に収められた遺骨が心に響くような存在感がある。手を伸ばして骨箱を触ってみる。抱え上げると意外と軽い。これが彼の死なのか。それに触ってみてもまだ彼の死がほんとうには実感できていない自分がいた。
「私、1日に3~4回、この前に座っているの。ボーっと、浩介の子どもの頃のことなんか思い出しているの。
そりゃ、何で死んだのよ、と怒ることもある。泣くこともある。泣くとお葬式のこと思い出すのね。お友だちも親戚も泣いてくれた。浩介のために泣いてくれたんだって。浩介はいいわよ。泣いてくれる人がいたんだから。
また、私がいま浩介のために泣けるというのも浩介がいたからなんだって。最近よ、そう思えるようになったのは。
以前は浩介がいないことが信じられなくて。きっと東京にまだいるんじゃないかと思ってたりしていた。いまでもときどきそう思うことがある。
でも、四十九日にはあんなにお友だちが集まってくれたし、浩介の思い出、私の知らない浩介の話を聞くことができた。きょうもあなたに無理を言ったら来てくれた。浩介はいなくなったんじゃない。いるんだと思えるの。
この仏壇の前に座り、あるいはお水を新しく変えたりするでしょう。ホッとする自分がいるの」
翌朝起きて仏壇の前に来てみると、きのうと違うピンクの花が挿してあった。母親が朝早くに整えたのだろう。
そして一周忌は、昼から住職、親族が集まって、自宅の居間で行われた。その後、皆で歩いて寺の墓地まで行き、納骨した。日差しが強く、皆が汗をかいていた。親戚の一人が母親に言った。
「これから忙しくなるね。あなたのことだから、墓参りも毎日するんだろうね」
彼女は汗を拭きながらにっこり微笑んで言った。
「家でも会えるし、ここでも会えるし、楽しみよ」
■現にある「供養」
私の供養の原風景というのはこの友人・浩介の母親の姿である。彼女が息子を想い、仏壇の前に座っているとき、水や花を換え、ロウソクを点し、そして墓に参り、水を遣る姿である。供養するということは、心の中で死者を忘れず、一緒にいる、ということではないだろうか。
死者との交流というのは、ものごとの表面には現れてこないものである。だが、私たちの生活には確実にあるものである。少なくとも死者を想うことを生活の一部にしている人がいる。これは確かなことである。
「供養」は事典で次のように説明されている。
「『塗る・彩る』などを意味するプージャナーの訳。『供給資養』の意味で、仏・法・僧の三宝をはじめ死者の霊などに対して供物を供給してこれを資養する行為で、供施・供給、略して供ともいう」(藤井正雄『佛教大事典』小学館)
「死者などの霊に対して供物を供給してこれを資養する行為」とある。死者の(霊の)ために行う行為が供養であるとするならば、葬式は最初の供養であり、法事はもとより、日常の仏壇前での行為、墓参も供養である。そうした行為のみならず、その前提となる「死者を想う」こと、それが供養ではないだろうか。