供養の再評価

2.供養の場としての仏壇

■「仏壇」か「仏檀」か?

 日常の死者の霊への供養の場としてあるのが仏壇である。
 だが、この「仏壇」というのは自明のようでそうではない。
 そもそも「仏壇」と書くのか、「仏檀」と書くのかだって明らかとは言えないようである。
 仏教民俗学者の五来重氏は次のように述べている。(文脈は「葬具としての位牌」である。)

「ところが仏教葬の目標も死者の生前の個性や貴族、貧窮、位階、功罪、善悪等の差別をすべて滅却し、大いなる仏性に帰一せしめるものである。これがすなわち『成仏』であるから、日本人の葬墓原理と一致するのである。『往生』という観念も大いなる弥陀の浄土に帰一するということで、庶民に受容されたにちがいない。ロマンチックな浄土の荘厳の華麗、水鳥樹林の美にあこがれるのではなく、偉大なる仏に帰一して永遠に生きる安心立命であろう。それはまた家の先祖なり氏神として永遠に生きることと、まったく別の理念ではない。位牌はそれと同じ供養の理念を表現したもので、これをまつる仏檀はそのような素朴な庶民の宗教意識の表現である。したがって仏檀の中に位牌をまつってはならないと指導する宗派があるのは、こうした日本人の宗教意識を無視したものといわれてもし方がないであろう。そのような宗派では「仏檀」という歴史的に用いられて来た文字も無視して、寺院の本尊をのせる「仏壇」と檀家の位牌をまつる「仏檀」を混用している。『広辞苑を引く馬鹿、引かぬ馬鹿』にしたがったのかもしれない」(『葬と供養』東方出版)

 確かに広辞苑には「仏壇」とのみ表記され、そこには「①仏像や位牌を安置して礼拝するための壇、②仏龕」と説明されている。五来氏の言うところの寺院の本尊をのせる壇である「仏壇」と檀家の各家の位牌をまつる「仏檀」は合わせて表記されて、同じく「仏壇」とされている。

 広辞苑をもっと明確にしたのが佛教大事典である。そこには「仏像を安置する壇。寺院の仏堂や信者の家に安置している厨子・仏龕、また寺院の須弥壇の総称。儀礼具の一つ」と記され、そこには仏壇は仏像を安置する壇であり、寺院の仏壇も信者の家の仏壇も本質的には相違ない、ということが暗黙のうちに述べられている。
 五来氏が「仏檀の中に位牌をまつってはならないと指導する宗派」と言っているのは、五来氏は明言していないが、浄土真宗のことであろう。
 浄土真宗は立場が明確である。大村英昭氏(関西学院大教授)が常に言うように「仏壇はホームチャペル」なのである。そこで真宗小事典(法藏館)では「仏壇」は次のように説明される。

「仏を安置する壇。一般に先祖をまつるもののように解されているが、真宗では浄土のありさまを表すものとして、位牌を置かない。仏壇は死者のためのものではなく、阿弥陀仏の慈悲に一人ひとりが出会い、家庭生活の中心となるべきものとされる」

 信者の家の仏壇もまた死者のためのものではない。だから仏壇には位牌を置かない、と五来氏と鋭く対立する。
 浄土真宗の立場では、あくまで「仏壇」であって、「仏檀」ではないのである。

■在家の仏壇

 仏壇とは何かについての理解の違いはかなり重要である。単に位牌を祀るかどうか、であれば真宗と他の宗派の違いと理解されればよいことである。
 本来は仏壇、すなわち仏像を安置するための壇であるとするならば、各家の仏壇は各家が属するお寺の宗派の荘厳(お飾り)に合わせるのが当然という理解になるだろう。お寺の本堂のミニチュア版なのであるからだ。確かに「ホームチャペル」である。そこは信心の場なのである。
 しかし、各家の仏壇が、お寺の仏壇とは性格を異にし、死者の(霊の)ためのものであるとするならば、 宗派的理解よりも民俗的理解、つまり死者への慣習的態度のほうが優先されていいだろう。

 五来氏が「仏檀」という表記にこだわる。そしてこのこだわりは捨て難いのだが、現代では広辞苑等の辞書の影響もあって「仏壇」表記が一般的になっている。そこで以下は寺院仏壇(五来氏の言う「仏壇」)と在家仏壇(五来氏の言う「仏檀」)という表記で論を進めようと思う。

 しかし今日、一般的に「仏壇」と言った場合に、寺院仏壇をイメージする人は少ないだろう。ほとんどの場合は在家仏壇をイメージしている。以下、在家仏壇の歴史について考えてみようと思う。
 藤井正雄氏は「わが国において、一般家庭の中で仏壇を祀ったはじめは『日本書紀』の伝える天武天皇の十四年(六八六)三月二十七日の詔で『諸国家毎に仏舎を作り乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよ』といわれたことにはじまるとされます。当時は仏舎とよばれたもので、これが時の経過とともに現在のような各家庭の仏壇の起こりとなったというわけです」と起源を説明している(『仏事の基礎知識』講談社)。
 こうであるならば在家仏壇は寺院仏壇のミニチュア版が起源ということになる。

 近藤豊氏は仏具大事典(鎌倉新書)の「仏壇」の項で、この『日本書紀』の「家毎とは三位以上の有位者か、あるいは地方の郡家という有力な豪族をさすというのが定説であり、庶民の家のことではないとされる」と、この文献が在家仏壇の初見であると認めつつ、現在の在家仏壇と直接結びつけることには慎重である。

 近藤氏は「現在の仏壇に近い物が一般庶民の各家庭に祀られるようになったのは江戸時代」と指摘する。近藤氏は「江戸幕府の切支丹禁制政策による檀家制度、仏壇改めによって全国の家庭に仏壇が設けられるようになった」と推測する。
 その背景には一方で貴族の間での奈良~平安に至る持仏堂、仏間の建立の流行からの展開があり、他方、庶民間においては祖霊信仰による精霊棚、位牌棚からの展開を推測している。持仏堂、仏間は寺院仏壇の影響が強い。寺院仏壇のミニチュア版、各家版である。他方、精霊棚、位牌棚は、素朴な民俗信仰から発したものである。この2つの流れが江戸時代に一つになったというわけである。

 五来氏が位牌を祀るものとして在家仏壇を想定しているのは後者、すなわち精霊棚、位牌棚からの展開を本質的なものと見ているからである。
 近藤氏は宗派の違いについても言及している。「天台・真言・禅宗では位牌の安置所として仏壇が発生した傾向が強く」「真宗や日蓮宗では古くから形も大きく、座敷に設けられたという」とその違いを指摘している。

 図式的に表現するならば天台・真言・浄土・禅宗が位牌棚型であり、真宗・日蓮宗が仏間型となるのであろうか。
 近藤氏が推測するように本山様式、つまり宗派別仏壇に分岐していくのは明治の宗派確立以降と思われる。これは明治末期以降の家観念の徹底以降に普及し、家の祭祀と深く仏壇が関係していったことによるであろう。この背景には日清戦争、日露戦争という近代戦の死者を家庭ごとに祀るということも深く関係したのではないだろうか。

■仏教文化と民俗の混淆

 在家仏壇は、奈良・平安期以降の貴族あるいは武家の持仏堂、仏間に起源をもち、江戸時代の勃興した商人階級により華麗な仏壇文化として花開き、中期の檀家制度の法制化に伴い大衆化した。
 その大衆化にあたっては祖霊信仰、精霊棚、位牌棚という民俗が大きく影響した。明治時代以降、宗派の荘厳に適合した装飾となり、家観念が強化されると家の祭祀の中心と位置づけられるようになり、家の先祖崇拝の場となってきた。
 仏壇の歴史を概観すると以上のようにまとめることができるだろう。
 仏堂の様子が再現され、経済的な興隆に応じて工芸的にも仏壇は発展してきた。

 各家に仏壇が普及することにより、仏壇はコンパクトにもなってきた。仏壇の形態には金仏壇型と唐木仏壇型とがあるが、唐木仏壇型は明らかにコンパクト形態である。金仏壇が仏間型であり、唐木仏壇は位牌型と分類することもあながちまちがいではないだろう。
 いずれにしても、現在の仏壇の外観はいかにも仏堂のミニチュア版である。寺院仏壇が本尊である「仏」を安置する壇であるのに対し、在家仏壇は家の先祖、つまりは「ホトケ」を安置する壇になっている。仏壇が仏教文化と祖霊信仰という民俗の混淆の産物としてあるということは言えそうである。

■イメージとしての仏壇

 仏壇の外観、あるいは成立の歴史を見てきたが、機能ということに着目すると仏壇そのものの差異はさほど重要ではないように思われる。
 もっとも重要なことは仏壇そのもの形態ではなかった。ましてや仏壇そのものでもなかったのではないだろうか。
 仏壇が、あるいは仏壇のある空間が死者(の霊)に対する供養の場であったということがもっとも肝心なことのように思われる。
 その意味では明治期に観念された「家の先祖」というのも付加的な位置にとどまるのではないか。
 
 一般に流通する「ご先祖様をお祭りする」というのは、考えてみれば抽象的な観念である。そこで具体的にイメージされていたのは死者である家族ではなかっただろうか。
 同じことを言っているように理解されるかもしれないが、「家のご先祖様」という観念は家制度の弱体化によって薄れるが、「死者である家族」はいまでも生々しい現実としてあるのではないだろうか。家族が死者を想う気持ちというのは時代が変わったからといって廃れるものではない。そして仏壇が生き生きと機能し続けたのは、家族の死者に対する激しい、生々しい想いだったのではないだろうか。

 浄土真宗でも位牌は置かれないかもしれないが、過去帳が置かれる。過去帳とは死者の名前を記したものである。確かに仏壇は、仏を礼拝するホームチャペルとしても機能したであろう。真宗や日蓮宗のあの激しい信心の対象であったし、いまもそうであろう。しかしそれは具体的な家族であった死者をホトケとして重ねることによって極めて身近な存在となったのではなかろうか。
 仏壇というのは生者と死者(の霊)の世界との間の扉のような機能をしていたものではないだろうか。生者と死者の世界は厳然と隔てられている。だが、この扉の前に座することによって、生者と死者(の霊)は対話し、交流することができるようになる。死者(の霊)に語りかけることが可能となるし、死者(の霊)の言葉に耳を傾けることが可能となるのである。

 仏壇という装置の意味は、遺族のグリーフワークという視点から再評価されなければならないように思われる。
 仏壇というのは、死者(の霊)と遺族が1対1で向き合う場である。そこで遺族は死者(の霊)に対して自分のありのままの感情をぶつけることができる。
 また、死者(の霊)の側にゆっくりと寄り添うことができる。
 静かに死者と自分の関係を考え直すことができる。
 何よりもいいことは、死者をひたすら深く想うことができる。

■墓と仏壇

 死者に対する供養の装置ということで言えば、民衆にとっては墓と仏壇はほぼ同時期に、江戸時代の檀家制度以降に一般化している。
 遺体の埋葬地としての墓は有史以来存在する。しかし、供養の対象となったのは近世以降のことであろう。そしてこれは仏教が葬祭仏教化することにより民衆化したことの影響と考えられる。
 ここで墓について詳しく論じることは別の機会に譲るが、墓参という行為について、ここでは触れておこう。

 散骨を含めた墓の多様化、家族の変容はあるが、墓参はいまでも廃れていない。1年に1回以上墓参する人は7割を超す。
 このことの意味するものは、死者を覚えて供養するという行為が日本人の生活習慣になっているということである。
 墓には死者の遺骨がある。しかし遺骨そのものは露出しているわけではない。墓や納骨堂に埋蔵ないし収蔵されているのである。

 ここで儒教の論理でつまらない議論を展開するつもりはない。素直な生活実感に伴った表現をするならば、家族は墓参することによって死者に会いに行っているのである。
 墓参を毎日する人もいるが、多くは命日、盆、春秋の彼岸、そのどれかである。
 だが、死者への供養は墓参だけではない。日常の家庭生活でもできる。それが仏壇である。家庭にいても死者の供養ができる。これが仏壇の機能なのである。

■新型仏壇、手元供養

 近年、死者供養の装置にも変化が見られる。
 その一つは伝統的金仏壇や唐木仏壇に代わって新しい生活様式にあったデザインの仏壇が現れていることである。
 ここで注目すべきことは仏堂のミニチュア版であることをやめる傾向にあることである。家の祭祀という役割も負わない。純粋に死者の供養の場として位置付けられていることである。
 もはや「供養」という言葉自体が使われない。死者のメモリアルとしてある。

 もう一つは「手元供養」と言われるものである。
 手元供養は、仏壇が自宅への据置型であるのに対し、携帯可能となった。いつも手元に置いておけるものである。
 手元供養にもいろいろあるが、遺骨の一部をペンダントなどに加工したもの、地蔵像等に遺骨の一部を収納したものなどがある。
 据置型から携帯可能なものになったことにより、いつでもどこでも死者を供養できる、死者との時間をもつことが可能となっている。

 この変化を見て連想したことがある。それは人とのコミュニケーションツールの変化である。
 昔は人と会うためには出かけなければならなかった。それが家に電話が入り、家でいながらにして会話できるようになった。それがいまや携帯電話の時代である。いつ、どこにいても人と会話を楽しむことができるようになった。
 死者とのコミュニケーションツールも同様なのではないか。初めは墓参という墓に行くことで供養し、次に家に仏壇を設け、家にいながらにして供養できるようになり、いまは手元供養でいつでも、どこでも供養できるようになった。

 もっとも死者供養はもともと小型可動型である位牌が出発点であったから、元に戻ったと言うのが適切かもしれない。
 新型仏壇にしても手元供養にしても旧来の死者供養と異なるのは、旧来が仏教的世界のものであったのが、汎宗教的、脱仏教の色彩を帯びていることである。しかし本質としての機能は従来の仏壇が有していた機能と変化がない。
 墓参が廃れないように仏壇あるいはその類似品による死者供養は依然として廃れていない。

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