供養の再評価

3.グリーフワークとしての供養

■グリーフは尊重されるべき感情

 グリーフとは、家族の一員を喪い、悲嘆に陥る人間としての自然な感情である。死別の悲嘆のことである。
 グリーフは、意識的であれ、無意識的であれ、遺族には訪れる。
 ある人は「愛すればこそもつ感情である」と看破した。
 人間は有限であるから、誰も死を免れることはできない。そのことを皆大なり小なり認識している。だから他人の死に対しては、場合により「かわいそうに」と同情することはあっても、極めて冷淡である。感情が動かされることはめったにない。
 悲しいかなこれが現実である。大事故、大災害での死者に同情はするが、それ以上感情が動かされることはまれである。

 だが、家族や身近な人の死の場合はそうではない。心が傷むのである。その傷みは、ときとして他人の同情を拒否し、孤立し、自分を失いかねないほどのものである。絶望、不安、無気力、怒り、後悔、敵意、失意、嘆き…といったさまざまな感情を体験する。
 死別によって家族、配偶者、恋人、友人というそれまで築いてきた関係性が破綻するからである。
死は、家族、配偶者、恋人、友人というそれまで築いてきた関係性を奪い取っていく出来事なのである。だから心が傷む。痛切に傷む。
 その傷みは、しばしば死という事実を否定し、受け入れることを拒否する。それは亡くなった人が不在では自分の生自体が意味をもたない、あるいは死者が不在では自分の未来と言わず、現在そのものがないと感じているからである。

 死別の悲嘆は、現代のように医療が高度に発達した時代にあっては、死の出来事に先行し、徐々に訪れることもある。告知により、あるいは長い延命治療の間に。また高齢社会となり家族が認知症に陥り自己崩壊を始めることにより、介護の間、逃げどころのない悲哀を体験することもある。
 先行してであるか、徐々にであるか、急激であるかは別として、家族、親密という関係の崩壊は、死にゆく人だけではなく、遺された人に大きな打撃、傷みを与える。

 しばしば言われることであるが、「強い信仰心は死別の悲嘆を克服する」あるいは「強い信心があれば死別の悲嘆は経験しない」というのは嘘であり、俗説である。そのようなことを説く宗教家がいるが、その人は人間というものをわかっていない。
 信仰や信心が無意味ではないが、死別の悲嘆というのはそんな生やさしいことではない。また死別の悲嘆は否定すべきものではない。
 グリーフは人間として生きるかぎり極めて自然な感情であり、尊重されるべきものである。

■グリーフプロセス

 一般的なグリーフのプロセスを述べるならば、5段階に分けられる。
 この分け方は研究者によりさまざまであり、アルフォンス・デーケン博士は12段階に分ける。また、5段階とはいっても、その順番どおりには進むとはかぎらない。
 一つの流れとしてとらえるというよりは、それぞれの人の悲嘆の局面として理解したほうがいいかもしれない。

①衝撃(ショック)
 第1は、衝撃である。
 死の事実を受け、衝撃のあまりの強さに取り乱す。現実感覚が麻痺し、情緒不安定に陥る。現実感覚の麻痺―これは家族を失ったという事実を受け入れると自分が壊れてしまうのではないかと、脳が自動的にガードを張るのである。
 衝撃を受けたことで、無反応状態に陥ったりもする。たとえば交通事故死の場合なども、それが現実なのかどうなのかわからないという、非常に不安定な感情に陥りやすい。

②否認
「否認」とは、死の事実を受け入れられず、打ち消すという行為である。
 家族が自殺した場合など、その死を現実だと自分の中では認めたくない。
 一方で、完全否定はせず、医師が死亡判定したことは頭では知りながら、心とか行動ではそれを打ち消すということもしばしばある。
 探索という行動に出ることもある。無意識に死者を探し回るという行動である。
 たとえば、家の中にいて玄関で物音がした場合、死んだ人が「帰ってきたのでは?」と思ったりする。子どもを亡くした母親のケースだと、亡くした子どもの分も自然と食事を用意してしまったり、子どもの部屋をなかなか片づけられなかったりする。反対に死者の好物をもう作れなくなる人もいる。
 死という事実を完全否定するのではなく、頭で理解していながら、感情と行動がそれを裏切るのである。

③パニックや怒り
 パニックに陥ったり、死の原因を探し、その対象に怒りをぶつけるということもよくある。自分の感情をまったくコントロールできなくなり、パニックに陥る。
 あるいは運命をのろったり、死を誰かのせいにして恨んだり、「自分がこうしていれば」と後悔し、自分を責め、自傷行為に及んだりもする。
 たとえば交通事故死の場合は、事故相手に対して怒りの矛先が向きやすい。また、病死などの場合も、死の原因をなすりつけあって遺族内で争いが起こったりする。同居し、看病していた人に対して、「お前の看病が不十分だったのではないか、もっと長生きできたはずなのでは」と責めたりする家族も出てくる。

 怒りの矛先の向けどころがどこにもなければ、自分に向く場合もある。自殺者が出た家族の場合は、原因を他者に向けることができない。あのとき、自分が家族としてこうしていれば、あのとき電話していれば、と悔やむ。あるいは、子どもを亡くした親の場合などは、過去まで遡り、「こう育てていたら」と後悔し、自分を際限なく痛めつけることすらある。こうした自傷行為は、ひどい場合、肉体的に影響を及ぼす。深刻なうつや心身症を発症する場合もある。

④抑うつと精神的混乱
 長く看病した病人を亡くした家族の場合は、この抑うつ状態が長く続くことがある。
 看病という自分の役割を失い、自分がやるべきことが見つからなくなり、無気力状態になる。「どんなことをしても相手は戻ってこないのだ」と、生き甲斐を失った人のように無気力状態になる。
 また、自分の悲しみは他人には理解されないものなのだと孤独感をつのらせる。

 たとえば、子どもを亡くした母親が、街に出かけると、不幸を知っている知人などに「がんばってね」と言われることがある。すると、逆に孤独を感じることになる。声をかけた人は同情し、励ましたいと思っているのだろうが、「自分はかけがえのない子どもを失った。それでも精一杯がんばっているつもりなのに、まだ足りないのか。所詮他人には理解してもらえないのだ」と不信感、孤立感を招く。そしてうつ的状態となり、引き篭もったり、摂食障害を引き起こしたり、あるいは不眠症になったりする。

⑤死別の受容
 グリーフには以上のようなさまざまなステージがあるが、最終的に死別の受容にいたる。死の事実を忘れるのではなく、悲しい現実を見つめ、自分の中で受け入れていくようになる。
 やがて、愛する者のいない新しい生活に少しずつ慣れ、日常生活における感覚を取り戻していく。
 人間には復元力が備わっている。心が傷つき、それがたとえ回復不可能と思われても、それを克服していく自然治癒力がある。

■死の状況により変化するグリーフ

 現代において、このグリーフのステージはさまざまである。
 たとえば、癌患者の場合。告知を受けると本人もグリーフのステージをたどるが、家族も、病人の死が避けられないと予告されることにより、グリーフを先取りする。
 これは「先取りされた悲嘆」とか、「予期悲嘆」とか呼ばれるものである。このような場合は、死の最終局面において、家族は病人をもうこれ以上苦しめないでほしいと願うが、その人が死ぬことによって一種の解放感のようなものを体験する。

 しかし、その解放感のしばらく後に忍びよってくるのが、役割を果たしたことによる、ある種の無気力状態である。これが高じると、その後かなり長い間、抑うつを経験するケースもある。
 現代では病人が患者を見守り、看病するということが、医療機関での完全看護制度のため、必ずしも保障されない状況にある。そのような場合は、家族は、病人を医療機関か施設に預けて、看病を依頼した段階で、家族としての「切れ目」をつけてしまうことがある。

 看病、介護の役割は、それ以降は医療関係者や施設で働く人たちに委ねられる。そうすると、患者の死後、あらかじめ死を予測し、覚悟ができている家族よりも、最期を介護した医療関係者・施設関係者が家族以上の悲嘆を経験する場合がある。これは「悲嘆の代行行為」などと呼ばれるもので、これからはこのようなケースが増えてくるかもしれない。

 家族関係が複雑化してきて、家族皆で死を看取るということは少なくなりつつある。死を看取るのは家族の中でも1、2人というケースが多い。そうすると遺族の中にグリーフの温度差が出たり、グリーフの方向性が親族内でも個人によって違ってきたりする。最期の看取りをした人はある種、充実感をもっているかもしれないが、離れて暮らしていて看病にも直接携わっていなかった遺族は、急速な悲嘆に襲われたり、あるいは死の実感を持てないことも往々にしてある。あるいは、看護に対して不満や怒りを抱くこともある。

■グリーフワーク

 グリーフワークとは、しばしば誤解されるが「死別の悲嘆の癒し」ではない。
 そもそもグリーフワークとは、死別を体験した、家族の喪失を体験した遺族自身がなす作業である。
 それは安易な悲嘆の克服ではない。ましてやグリーフを忘れることではない。それは自己の悲嘆を見つめる、ある意味で辛い作業であると言えよう。だからといって特別なことを課す作業ではない。グリーフがグリーフワークを要請するのである。

 グリーフプロセスを先に述べたが、グリーフワークとは、よりよいグリーフプロセスを辿るための遺族の作業と言ってもいいだろう。
 グリーフとは自然な感情であり、人間は復元力をもっている。だが、対処を誤ると深刻なうつ状態に陥り、また、心身症を引き起こすこともある危険性もまた潜めている。遺族が適切なグリーフワークを営むことは重要であり、これを傍らで見守り支援するグリーフケアもまた大きな役割を負っている。

■死の事実を見つめる作業

 グリーフワークの第一歩は、死の事実を見つめる作業である。死の事実から目を逸らさないことである。
これは痛みを伴う作業である。できれば死という事実がなかったことにしたいと思う。現実ではなく、夢であればいいと願望する。その事実の前から逃れたいと思う。だが事実なのである。

 葬儀がグリーフワークであるというのは、死の事実の認容という点にかぎっても言える。例えば、医師による死の宣告、末期の水、納棺、あの世に送るために葬儀をすること、出棺前のお別れ、火葬、火葬後の拾骨…これらの作業は全て死という事実を遺族に突きつけ、確認を強制する作業である。
 葬儀をしない、あるいは近親者だけの閉ざされた範囲のみで行う、ということは、死の事実を公にしないということで、死の事実性を曖昧にする危険がある。

■悲嘆の表出作業

 第2は、悲しみ、嘆くことである。悲嘆の表出という作業である。
家族を喪うことは当然にも悲しい。いのちを奪われたことへの怒りを覚えることもある。こうした自分のグリーフの感情に対して、抑圧するのではなく、自然に表出することである。
 突然のことで感情が麻痺し、悲しみが表出されにくいこともある。このため周囲は緊張を強いるような環境を与えず、遺族が一人になれる時間、遺体とゆっくり向き合う時間を作れるよう配慮する必要がある。また遺族の想いを聞き、心を解き、自然な感情が発露しやすい環境を用意する必要がある。

 悲しむということは極めて大切な作業である。家族と死別し、悲しむというのは自然な感情である。これを抑圧するということは心に歪みをもたらす。
 葬式は社会的儀礼だとだけとらえると、この遺族の極めて私的な個人的感情の処理という面を蔑ろにしがちである。遺体としばらく向き合える時間を作ることは、遺族が外の人に気遣うことなく、悲しめる、泣ける時間を提供するということである。

■死者を弔う作業

 第3は、死者を弔うことである。死者のことを深く想い、死者のために弔うことである。
例えば、臨終で枕経を一緒に勤める、死化粧に参加する、故人らしい遺影写真を選ぶ、故人の出棺に際し花を捧げる、手紙を書いて柩に入れる、7日ごとに供養する、仏壇の花を取り替える…死者の弔いのために自分のできることをすることである。

 葬式を出すということは重要な死者のための弔いである。葬式をしないことが流行りのようになっているが、グリーフワークの観点から言えばプラスではない。本人は家族に迷惑がかからないようにと善意で「葬式をするな」と言い残すことがある。だが遺族の感情を考えたものではない。
 葬式の規模は問わない。小規模の葬式でもいい。遺族が死者をきちんと弔ったという形にすべきである。弔いは遺族の義務ではなく、権利なのである。

■死者の再評価の作業

 第4は、死者と自分の関係を見直すことである。死者の再評価と言っていいだろう。
 死者と自分の歴史、こんなことがあった、あのときはどういう想いだったか、うれしかったこと、辛かったこと、ときには後悔した出来事、交わした会話…そうしたことをランダムでいいから思い出し、死者が自分にとってどういった存在であったか、あるいは自分は死者にとってどんな存在であったのか、見つめ直す作業である。

 思い出の写真をアルバムにして整理することでもいいだろう。死者に対して自分のいまの想いを手紙にして書くのもいいだろう。家族で死者の思い出話をするのもいいだろう。
 死者が自分にとってかけがえのない存在であったことを自分の中で再発見することである。それは時には悲しみをぶり返すことになるかもしれない。焦らず、ゆっくりとでいい。また、まとまった作業にならなくてもいい。死者の服を整理するなどもこのためには有益である。
 死者が遺族にとって心の中でかけがえのない存在であると再評価できたとき、グリーフワークは終結を迎える。

 死者が配偶者、子という関係にあったとき、ある意味で死者と遺族は相互依存の関係にあった。それが死によって強制的に切り離されるのである。遺された者は不安に怯える。その死者が心の中で位置付けを与えられ、これからの生を共に歩むという気持ちになったとき、新しい死者なき世界に歩みだす勇気が与えられるのである。
 死者を忘れ去ることでグリーフ(悲嘆)から脱却するのではない。死者が遺族の心の中に入っていくことによりグリーフを克服できるのである。それは死という事実がなかったかのように日常生活に復帰するのではなく、かけがえのない人の死という事実を経た新しい日常を創造していくのである。

■供養はグリーフワークである

 私は「供養」というのは、遺族にとって大切なグリーフワークであるし、また、供養はグリーフワークとして位置づけられる必要がある、と考える。
 四十九日、百か日、一周忌、三回忌は特に重要である。死者を忘れるのではなく、死者を思い起こす時であるからだ。確かにこうした死者の記念日は、記念日症候群と言い、しばしば悲嘆のぶり返しの機会ともなる(記念日症候群には故人の誕生日、結婚記念日などに際しても生起する場合がある)。
 遺族は一周忌(人によっては三回忌、四回忌くらいまで)までは精神的に落ち着かず、精神的混乱の中に置かれる。

「喪中」とはよくできた人間の知恵、文化である。大切な家族を喪った遺族は喪に服するのである。喪に服するとは、死者の供養に専心するということである。また、遺族が喪に服することを周囲は承認することである。
 喪中にある遺族は、日常生活では仏壇の前で、あるときは墓参し、死の事実を確認し、誰に憚ることなく悲しみ、嘆きを表出し、死者を深く想い、弔い、死者と自分の関係を見直す時をもつのである。
 こうした供養がグリーフワークとなって遺族の再生、死者との新しい関係づけが可能となるのである。
 われわれ日本人には、死者を供養するという慣習があり、その供養を保証する喪中という文化があり、供養を可能とする仏壇という装置があった。このことをグリーフワークという視点から再評価される必要をいま強く感じている。

広告
供養の再評価に戻る