変わりつつある葬儀の課題

3.葬儀および仏教の問題と課題

(1)日本仏教の抱える問題点

■葬儀・墓における寺への悪口

以下のような「悪口」を耳にします。
-1-戒名料・院号料が高い
 いわゆる「戒名料」という問題が出てくるのは60年代以降です。それまでは篤信家だとか、社会的地位が高かったり、檀家総代の家であったりして寺の維持に貢献した人に対してだけ、特別に寺側の意思で院号が与えられたのが、戦後の高度経済成長を背景に「お金を出せば誰にでも戒名を授与」という風潮が出てきました。経済の民主化の産物でもあると思います。戦後の農地解放により寺の財産も疲弊化し、その代替の財源ということで寺にとってっも都合がよく、お金を出せば庶民でも院号をもらえるようになりました。

 全日本仏教会は「戒名料、院号料とは言わない」と宣言しましたが、それを「お布施」と言い換えようが、現実には問題があります。東京都生活文化局の葬儀に関する調査を分析すると、寺院費用の平均は40~50万円ですが、特別な戒名をもらっていない人は20~30万円なのに対して、院号のついた特別な戒名のついた人の平均は60~80万円です。差額が40万円以上あります。

 東京のあるお寺での話ですが、葬儀を檀那寺に依頼しようとしたら、「お宅は代々院号がついている。70万円出さないと葬儀をしない」とはっきり言った僧侶もいます。
 もちろん、僧侶もいろいろで、私の知っている僧侶は40万円包んだ喪主に半分の20万円は返して、「お寺との付き合いは葬式だけじゃないのだから、無理をしないでいい」と言いました。

-2-わからないお経に退屈
 最近よく聞かれるようになったのが「お葬式って何やっているのかわからない」「わからないお経を聞かされて退屈する」という意見です。
 これに対して、最近では式次第を解説付きのパンフレットを配ったり、式衆のお一人が解説を交えて進行する例も見られるようになりました。

-3-火葬場についてこない
 多くの僧侶の方々は火葬場までついて行かれますが、ついて行かれない場合には大変な反発を呼びます。火葬前というのは遺族は遺体との最後の別れの時で精神的に不安や動揺を抱えています。その時に傍らに僧侶がいないというのは、凄い反発を招きます。「火葬場にもついてこないで、高いお布施を請求された」となります。

 歴史的に見ても、土葬の場合の埋葬時や火葬の場合の点火時点というのは、仏教葬儀においても最重要視された時点でした。引導の所作が火葬の点火の動作を象徴するのは理由のあることです。

-4-お布施の相場がわからない
 葬儀費用の中で最も「わからない」とされているのが「お布施の額」です。「お布施」としての意味はなく「料金」ととらえられているのでこういう問題が起こります。

-5-法話をしない・法話が下手
 昔から「通夜説教」とか言われ、僧侶が法話をする習慣があり、これが遺族へのケアにとって重要な意味をもってきたのですが、最近では法話をしない、あるいはできない、あるいは下手な僧侶がいる、という批判です。

■「葬式仏教」とは

 いわゆる「葬式仏教」ということには二面性があります。
 第一は「人々がお寺に対して葬式、法事、墓以外のことを期待しない」ということであり、もう一つは「寺は葬式、法事、墓以外のサービスを提供しようとはしていない」ということです。
 前者は人々がお寺に宗教を期待していない、ということであり、後者はお寺に宗教がないということです。

 もう一つ考えなければならないのは、「人々にとって葬式、法事、墓とは大事な問題ではないのか」という問題です。
 私は、葬式、法事、墓というものが人々にとって大事な問題でなければ、仏教は葬式仏教という形ですら生き残れなかっただろうと思います。過去においても大事な問題としてあったし、現在でも大事な問題としてあると思うのです。
 そうでなければ、いくら「習慣」とはいえ、95%もの人が仏教で葬式をやるわけがないと思うのです。

 他方、お寺は葬式、法事、墓に係わってきたと言いますが、本当に正面からこの問題に対峙してきたのか、問われなくてはいけないように思います。

■「葬式仏教」の現状

 僧侶養成機関において、葬式とはどういうものなのか、そもそも死とはどうとらえるべきか、法事とはどういう意味をもつのか、墓とはどうあるべきなのか、実践論としてだけではなく、きちんとした位置づけ、教育が行われる必要があるのになされていないように思います。

 そうであるならば、極端な言い方になってしまいますが、僧侶はきちんとした教育を受けていないのだから、葬式、法事、墓についてはアマチュアでしかない。アマチュアでしかない僧侶が、見よう見まねで勝手に、寺という現場で葬式、法事、墓に係わり、指図して生計を営んでいるのではないか、という疑問が出てきます。

■葬祭仏教の立ち位置

 私は、日本の仏教というのは、葬祭仏教化したが故に民衆宗教として生きることができた、と思います。このことをマイナスにだけ評価する必要はないと思います。ある意味でプラスに考えていいことであろうと思います。

 仏教が民衆の葬祭に係わるようになったのは、奈良時代の聖(ひじり)たちの係わりを別とすれば鎌倉時代以降のこと、特に近世との派境期である応仁の乱以降のことです。
 仏教は民衆一人ひとりの生死に葬祭ということで係わることによって意味づけを与えたのだと思います。私なりに表現すると、民衆一人ひとりに人格を認めたことになります。

 民衆の葬儀をする、弔うということによって、そのいのちは弔われるもの、弔われる価値のあるものと認められたのだと思います。それ故に民衆は仏教を受け入れ、寺を受け入れたのではないかと思います。だから葬祭仏教であることを否定して寺はないのだと言ってもいいかと思います。

 いのちの重要な局面である死に際して葬儀ということで係わり、死別の悲嘆の強い時期である四十九日には7日ごとに係わり、以降百か日、一周忌、三回忌、と遺族の喪に係わり、さらに法事を積み重ねていくわけです。
 葬儀に係わるといっても、僧侶の方はご経験あると思うのですが、生前その人と係わりをもたないで、ちゃんとした葬儀をやろうとしたって無理です。民衆との日常における生きた関係がなければ葬祭仏教自体が成り立ちません。

(2)葬儀とは何か

■家族にとっての葬送

 家族にとって葬儀を行うということは、「かけがえのない家族の一員を喪う」ということです。この死の看取りということは極めて重要です。
 死別は英語でビリーブメントと言いますが、いのちが奪われる感覚です。その死別によって遺族は悲嘆(グリーフ)を抱え込まざるを得なくなります。

 グリーフというのは痛い悲しみとでも表現したらいいでしょうか、心が切り裂かれるような傷みです。
 死の事実を認めるということは家族にとって辛い作業です。苦痛です。しかしその死の事実を受け止め、死者と別れ、送り出すのです。遺体は埋葬または火葬に処します。
 それで終わるわけではありません。遺族はグリーフを抱え喪に服します。そして死者を供養していく。
 仏壇、墓参り、法事ということで供養していくのですが、この死者供養は遺族にとってグリーフワークという観点から再評価されるべきだと考えています。

■葬儀における死者と遺族の関係

 昔の通夜は、いまのような葬儀の前夜という意味だけではなく、亡くなって葬儀を出すまでの間を言っていました。
 最初は死を否定したいという気持ちがある。生前充分にできなかったことをしてあげようと一生懸命に死者に仕える。これは同時に遺族が死を受け入れるための準備作業としてありました。

 ですから、かつては通夜までの期間は、死者を生者として扱ったのです。これは近親者だけで守ったのです。
 しかし、仕えたけれども生き返らないということで断念して葬式を出す。死者の往生、成仏を願って行われるのが葬儀式です。それは死者のために行われると同時に遺族の安心のため、という二重構造をもちます。

 葬儀後には遺族は中陰壇で、それ以降は仏壇、墓前で死者をひたすら供養します。そしてこの供養行為自体が同時に遺族のグリーフワークとなる、ということでも二重構造をとります。
「グリーフワーク」は、直訳すれば悲しむ作業で、遺族のなす作業です。これに対して「グリーフケア」というのは遺族のグリーフをケアする作業のことです。最近はケアという言葉が「癒してあげる」「お世話をする」と一段高みから接するイメージがあるので、サポート(支援する)というほうが適切に伝わるのではないかと、「グリーフサポート」という言い方も出ています。
 法事に僧侶が出仕する、近親者が集うというのはまさにグリーフサポートとしてあるだろうと思います。

■同伴者としての僧侶

 僧侶がよりよいグリーフサポートを行うためにも、僧侶は檀信徒の同伴者にならなくてはならないと思います。
 日常においてはよき相談相手として、死亡直後には駆けつけて、枕経をあげて看取る。この枕経の時期というのは死亡直後ですから遺族は動揺しているのです。その時、一緒にいて悲しみを分かつというのは重要です。

 納棺のときも僧侶は立ち会います。納棺というのは死者を棺に納めるのですから、いわば死の事実確認という意味をもっています。遺族に死の事実を強制的に納得させるのです。

 禅宗の葬儀次第を見ると、昔は僧侶はこうやって死者や遺族に付き合ったのだろうなということがわかります。納棺、通夜、葬儀、火葬(埋葬)というプロセスにずっと僧侶は付き添っていた様子がうかがえます。
 葬式の後もずっと遺族に付き添っていく。それがグリーフケア、あるいはグリーフサポートです。

(3)死を考える視点

■死の概念の変化と多様な死

 もし人間の一生を子ども時代、青年期、壮年期、そして老年期、そして死に至るということが理想的な形と捉えるならば、過去の日本人の多くの死は「途中での死」でした。現在のように高齢者の死が普通になったのは第二次大戦以降のことです。

 いくら高齢者の死が多くなっても全ての人が高齢になって死ぬわけではありません。人生に充実感をもち、充分な長さを生き抜き、家族にあまり負担をかけることなく、できるだけ自然に死ねたら本人は満足でしょう。家族もそれなりに介護や看護ができて静かに看取ることができたら納得しやすいでしょう。でも、そんなに都合のいい死ばかりではありません。無数の死の物語があり、一人ひとりの死が異なっています。そしてそこにはリアルな死があるのです。

■予告された死

 日本の死因のトップは悪性新生物、つまりがんによる死です。かつてはがんと言えば助からない病気の代名詞でしたが、いまは治癒率も高まってきています。それでも末期がん、進行性のがんの場合には助からないというケースが多々あります。
 最近は本人に対する告知も進んできています。ついこの間まではがんであることを家族は本人に隠しとおすというのが一般的でした。

 キューブラー・ロスががんにより余命を告知された人のたどる心理的プロセスを「否認と孤立」―「怒り」―「取り引き」―「抑鬱」―「受容」と5段階に整理しました。もちろん皆が同じプロセスをたどるわけではありません。しかし、死を受け入れるには大きな葛藤がつきまといます。

 病気による身体的苦痛、そして精神的苦痛、最近ではそれに加えてスピリチュアル・ペインということが指摘されています。「霊的苦痛」と訳すと実感ありませんが、いのちの根源、魂の奥深いところでの不安・傷み・悩みというものです。こういったターミナルの現場では身体的苦痛を取り除く、精神的な充足感を提供するケアだけではなく、スピリチュアル・ケアの大切さが言われるようになっています。
 今までは死にゆく人本人に対するケアが語られてきましたが、最近では遺される家族のケア(それも死の予告に伴う「予期悲嘆」から死別後のプロセスに対して)の重要さも指摘されるようになってきています。

■予期されない死

 事故や事件に巻き込まれての死、あるいは突然死。
 そのとき家族はしばしばショックのあまり現実感覚を失います。それは自己防衛機能が働くのだと言われます。その事実に直面したらおそらく耐えられないだろうという本能的予測が、そういう状態を招くというのです。

 事故等の被害者になった場合には、しばしば加害者に対する強い怒りとなって現象します。原因や理由が明らかでなければ犯人捜しが始まります。それはしばしば他の家族に向けられたり、向け先がないと自分に、つまり自責となって現象します。

■自死

 9年連続して3万人台が定着して社会問題化している自殺ですが、最も多いのは中高年の男性の自殺です。
 10代の死因のトップは不慮の事故ですが、2位に自殺がきています。20代と30代の死因のトップは自殺です。
 40代ではトップは悪性新生物ですが、2位が自殺となっています。自殺は若者の場合が目立ちますが、高齢者の自殺も少なくありません。

 自殺者の少なくと8割以上は欝病等の精神疾患が影響していると推定されています。もちろん個々に特有の問題を抱えているうえのことですが。

■自死を考える視点

 最近はなくなりましたが、かつては「自殺はいいか悪いか」という議論があり、「生命は地球より重い」などのアドバイス、解決策が語られたりしました。それは自死というのは意思的行為であると考えられていたからです。
 自死は一見極めて意思的な行為に見られがちですが、その実態は、ほとんどがその人が意思的に選んだ結果ではない。欝病などの心の病に侵された結果、何かの引き金で死んだと考えられています。最近では「追い込まれた死」という理解が拡がっています。

 自死には理由捜しが横行しますが、単独の理由がそのまま自死に繋がるのではなく心の病に陥った深く影響しているというのです。
 鬱になるとほんとうに視野が狭くなります。生きることが大変なエネルギーを要することと感じられてきます。「よく自殺なんてできるね」と言われますが、生きているほうがずっと大変に感じられるのです。死以外の選択肢を奪うのです。

 自死は「いいか悪いか」という倫理の問題ではないと思います。その人の抱えている問題、症状が他人に気づかれない、あるいは適切な処置が講ぜられなかった結果、死を招いたのだと思います。
 但し、自死が遺された家族(あるいは周囲の者)に与える傷は大きいです。深い傷です。遺された者から言い訳を奪うからです。傷の血の出口がなく苛み続けます。

■対処する視点

 宗教者が死に対拠する視点を3つ挙げます。

-1-「死後」だけではなく、本人と家族の生前の関係を引き継いでケアするもの
 亡くなってからケアしようとしても難しいです。

-2-葬儀のケアの対象は、死者本人とその家族である遺族。
 先ほど、葬儀の構造は二重性をもつ、と言いましたが、死者本人とその家族のどちらが欠けても、あるいはどちらかに偏っても葬儀というのは不完全です。そしてこの2つの主人公は重なり合っているのです。
 家族は、家族の一員が死んで、喪失して「遺族になる」のです。遺族になることで家族も「小さな死」を体験するのです。

-3-死者本人のために行われない葬儀は家族にとっても意味のない葬儀
 少し話がわかったような人は「葬儀は結局遺族のためにある」と言うのですが、それはあくまで第三者の視線です。当事者となった場合、徹頭徹尾死者本人のために行われない葬儀は、遺族にとって無意味な葬儀になってしまいます。

(4)葬儀の変遷とこれからの課題

■葬儀の変遷

 江戸時代までは夜に葬儀が行われていました。昼間葬儀が行われるようになるのは明治期になってからのことです。
 明治の中頃になり商人階級が勃興するようになると、昼間街中を葬列が派手に練り歩くという現象が出てきます。
 棺も座棺から寝棺に変わります。最も寝棺を使ったのは裕福な階層で、庶民は座棺でした。貧窮家庭での座棺は戦後の50年代まで見られました。葬列が派手になり、さまざまな葬具も開発されました。

 告別式の最初は中江兆民の葬儀と言われますが、それまでのメインイベントである葬列に取って代わって、昭和の初期あたりから流行してきます。棺を運ぶ輿がデザイン化されて祭壇となって登場します。
 祭壇が全国的に普及するのは60年代です。高度経済成長の波に乗って祭壇が華美になり、葬式が大型化します。

 80年代から斎場(葬儀会館)が出てきます。葬儀といえば自宅で行われるものだったのですが、今では斎場(葬儀会館)での葬儀が主流となりました。葬儀・告別式という形態が定着するのはこの時代です。
 現在、葬式は二極分化の時代を迎えています。家族葬が一般化するなど一方で葬式の小型化が凄い勢いで進行しています。他方、通夜の告別式化が進行するようになりました。

■現在進行中の葬儀の変化の背景

 ここで、現在進行中の葬儀の変化の背景を挙げておきます。

-1-バブル景気の崩壊
 92年にバブル景気が崩壊し、長いデフレ不況を経験することになります。「大きいものはいいものだ」という感覚が薄れました。葬儀で言えば祭壇競争が終焉することになります。

-2-超高齢化
 80歳以上の人の死が4割を超え、本人の仲間の参列が少なくなりました。また、家族のほうも葬式への緊張感を失うケースが多々見られるようになります。

-3-地域・家→核家族→家族分散
 日本の葬式は家、地域コミュニティが中心になって執り行われていましたが、都市化による地域コミュニティが弱くなり、核家族化することで家(イエ)意識というのが弱くなり、親戚関係も希薄になってきています。さらに家族の紐帯も怪しくなり、家族解体、遺族の孤立化を招く状況となっています。

-4-死のポルノグラフィー化
 マンガ、ゲーム、ドラマの世界では非現実の死が露出されている一方、生活の中で死を看取るということが極端に少なくなったために、身近な家族のリアルな死を体験する機会が少なくなりました。また、リアルな死は隠そう、見ないようにしようという社会意識になっています。

-5-宗教意識の拡散
 宗教意識の拡散はかなり進んでいます。特に団塊世代が高齢者の仲間入りする頃がかなりの危険信号です。この世代以降は宗教意識が薄いなんてものではありません。現在進行形の葬儀の変化は戦後生まれの団塊世代が喪主となって以降に対応しています。戦後生まれ世代の価値観が主流となったことが現在の葬儀の変化の背景にあります。

-6-葬式を知らない
 私は「年寄りですら葬式を知らない時代」になったと表現しています。地域に代わって葬儀社が全てを差配する時代になり、他人の葬式に行っても手伝うではなく、焼香だけして帰る。遺族になるということがどういうことなのかもわからなくなっています。

■緩慢な死

 超高齢社会になり、大事件であるはずの家族の死すら大事件でなくなるケースが増えています。もちろんそうでない葬儀もあるのですが、悲嘆のない葬式が増えています。
 現在、二人称の死に接する機会が激減しています。実際に遭遇しても、生活を共にしていませんから実感がないのです。
 介護→入院看護→死というプロセスがあたかもプログラム化されているような感じです。ですから死に緊張感がないケースが多々見られます。

 本来は家族の死というのは、本人と向き合う存在である二人称の死なのですが、孫などには他人事のように思え、そのため二・五人称のような葬式が増えています。

■葬式の原点

 葬式の原点は何か、人それぞれ意見があろうかと思います。私は6点あげてみたいと思います。

-1-死者のいのちの尊厳
 亡くなった人を生前から通じて遺体となった今も大切にする、ということです。死者をその生死を含めて弔うということです。これがない葬式は葬式ではないと思います。

-2-遺族の心の傷み
 遺族のグリーフを大切にする。これに配慮することです。

-3-死の事実の確認
 死を事実として確認するために葬式はあると言っても過言ではないでしょう。葬式というのは何も通夜と葬儀だけではない。死を看取り、枕経、納棺…とステップを踏んで死を受け止めていくことです。これが遺族のグリーフワークにとっても重要な働きをします。

-4-悲嘆(グリーフ)の表出
 悲嘆というのは涙を出すだけではなく、怒りであったりしますが、遺族が悲しみを表出することが大切です。死別した近親者がグリーフに陥ることは自然なことです。遺族が悲しむことを遮る葬式ならしないほうがましです。

-5-心の中へ
 葬式というのは死者を忘れるためにあるのではありません。死者のいのちを明らかにし、それぞれの心の中で大切なものと位置づけるためにあります。

-7-共感
 葬式で重要なことは周囲の共感です。周囲の人々の死者を弔い、遺族に寄せる共感は大きな働きをします。

■留意点

 デスケアという観点で、これから大切にされるべきだと私が思うこと3点を挙げておきます。

-1-前葬儀としての枕経
 現在、葬儀の打ち合わせは僧侶抜きで葬儀社と遺族との間で行われることが一般化しています。
 しかし、これに僧侶が加わるべきだと思うのです。
 死亡直後の死者の枕辺で家族がそろって枕経を勤めた後、遺族の想い、本人の意思を聴き取る作業を行うことがとても大切です。

 遺族の語る言葉に耳を傾けることだけでも重要です。そして遺族の想いを知って葬式を組み立てていく。これは葬儀社だけではできません。僧侶だけでもできません。
 遺族は自分たちの傍らに自分たちの想い、悲しみを理解してくれる人がいると感じられればいいのです。

-2-葬儀をグリーフワークとして位置づける
 私は遺族を葬儀に参加させるべきだと思います。遺族が自分たちが葬儀を出したと感じられる葬儀にしなければならない。葬儀の一つひとつのプロセスが遺族のグリーフワークとして位置づけられるべきだと思うのです。

-3-スピリチュアリティ
 今の葬式では宗教儀礼が営まれているのですが、単なる儀式に終わっていることが多いように思われます。それを通じていのち、大切なものへの視点が感じられるようなものにしていかなければならないのではないかと思います。葬式を行うことでスピリチュアルなものに、大切ないのちに目を向け、感じられるように、という願いがあります。葬式における宗教の役割は大きなものがあります。

■僧侶派遣業者の駆逐を

 最近都市部では「僧侶派遣業者」が暗躍しています。これは由々しき問題と考えています。
 都市部では檀那寺をもたない人がいるため、この人たちの葬儀で葬祭業者が僧侶を紹介します。
 いい僧侶を無報酬で紹介するならわかりますが、「お布施」からリベートを取るのです。お布施が宗教的な意味での法施なら、これから手数料を取るのは宗教の収奪です。

 さらに葬祭業者が会社単位、従業員単位でやっていた僧侶紹介が、僧侶派遣プロダクションの仕事になっています。
 遺族には「明朗会計」とか「院号が安く入手できる」、はては「葬儀後は面倒なお寺との付き合い不要」を謳って迫ります。
 ここで働く僧侶が全て悪いわけではありません。いい僧侶の方もいます。

 しかし、葬儀ビジネスに取り込まれる宗教とはどういうことでしょう。既に結婚式のチャペルウェディングの司式する牧師のほとんどは派遣牧師であり、派遣プロダクションからであり、本職が牧師であるほうが少ないのが現状です。葬儀も同じようになっていいのか?という疑問を強く抱きます。

 リベートもかつては3割と聞いて驚いたのですが、今や5割の世界だそうです。
 遺族の役に立っているのではなく、宗教においてもビジネスしているのだと言うほかありません。
 地方の困窮した寺の僧侶が出稼ぎしているケース、寺の次三男が仕事をしているケース、定年後に通信教育でお経を学んだ人、働く人はさまざまですが、これらの人を利用して儲けている業者がいるということです。
 紹介が必要な場合は、仏教会などが斡旋する仕組みが必要でしょう。

 葬儀に従事する者は、この癒着を切る必要があります。故人のため、遺族のため、と口では言いながら、こんな葬僧癒着を裏で行っているのは、死者を冒涜する行為であると心得るべきです。

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