葬式の実際 ―死の看取りから始まるプロセス

【おわりに】

 ここで最後に現在進む葬式の合理化に苦言を呈しておきます。それは初七日のことです。骨葬のケースは別にして遺体葬の場合、火葬場への出棺を前に葬儀に引き続いて初七日の法要をしてしまうことです。
 これまでも繰り上げ初七日はありました。しかし、それは火葬が済んだ後に行われていました。それが火葬の前に行われるケースが出てきたのです。
 葬儀社の都合なのか、火葬場へ同行できない僧侶の都合なのか、火葬後はレストランで骨を休めたい遺族の都合なのかわかりませんが、これはないでしょう。
 初七日から始まる四十九日までのことは葬式後の喪の作業としてあるのです。
 家族葬に代表されるように、葬儀が遺族の手に戻り、より人間的なものになるのは理解できます。しかし、葬儀に連続した初七日は悪しき合理化でしかありません。

 葬式は90年以降、ほぼ5年おきに変貌するという激しい変革期にあります。
 たとえば平均会葬者数は90年と05年とを比較すると、280名(セキセー調査)から半減以下の132名にまで減少しています。
 95年頃に登場した新しい様式は「家族葬」と「自由葬」ですが、家族葬は完全に市民権を得たのに対し、「自由葬」はそこにまで至っていません。しかし、後10年するとこれはわかりません。既に東京では檀那寺をもたない宗教的浮動層が4割以上を占め、いまのところは、多くは「とりあえず」仏教を選択していますが、これが「仏教やめた」と言う時代がいつくるかわかりません。団塊世代が本格的に高齢者の仲間入りすることによって、これまでにない変化が予想されます。

 葬式の個性化が進んだ結果、いまやメモリアルコーナーは葬式の一般的な風景となろうとしています。
 しかし、これも見た目のよさではなく、遺族が葬式に主体的に参加するための道具、つまり故人との思い出を遺族自ら確認するために、遺族が写真選びを行うのでなければ、意味がありません。
 これからの葬式で確認すべきは死者の尊厳と遺族のグリーフへの配慮でしょう。

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