現代葬儀考

グリーフケアの視線

 

 グリーフ(死別の悲嘆)の問題については日本の葬祭業の世界でも急速に認識が高まってきている。

 米国で親を亡くした子どもたちのグリーフサポート活動をしているシンシア・ホワイトさんの言葉が印象的である。
「グリーフサポートをする場合に大切なことは?」
 との質問に彼女は答えた。
「自分が最愛の人を喪った経験をしたとき自分はどうであったかを考えなさい。もし経験がないならば、今自分が最愛の人を喪ったならばと想像しなさい」

 遺族を「かわいそうな人」と見てのかかわりは間違いだというのである。「かわいそう」と見て「何かをしてあげよう」という姿勢は、それが善意であっても、上から下への視線である。グリーフに陥った人は本能的にそれを感じる。その善意に慇懃に感謝の言葉を返すが心は開かない。ときにはその善意の関心をうるさく感じることさえある。ときには敵意となって跳ね返ることもある。それに対し、善意の人は、なぜ私の好意が遺族に理解されないのかわからずとまどう。
 グリーフケアに携わる者に必要なのは、よく誤解されるが、こうした善意ではない。必要なのは人間としての共感である。グリーフにある人と目線を共有することである。

 私は2年間葬祭業を志す若者たちに葬送概論を教えてきた。私もしばらくは教壇から離れるし、生徒もここから葬祭の現場に出ていく。私にとっても、彼らにとっても最後の授業となる。その彼らに私は最後のレポートを課した。それは「もし、あなたが最愛の人を喪ったら」というテーマである。
 葬儀の現場とは、最愛の人を喪い、遺族となった人たちが中心となって営む弔いの場である。遺族の死別直後のグリーフプロセスが葬儀そのもののプロセスである。したがって、葬儀にかかわるとは、遺族のグリーフプロセスにかかわることを、意識しようがしまいが意味する。これにかかわる葬祭従事者や宗教者の役割と姿勢は、より重要となってきている。だから生徒たちに一度はこの問題を、自分のこととして考えてほしかったのだ。

 「死の事実を受け入れられないだろう」「完全に無気力になってしまうだろう」「喪うということは考えられない。狂乱してしまうのではないか」「考えたくない。現実逃避にはしってしまうのではないか」…
 生徒たちのレポートは、一様に短く、考えたというよりも感じたことをそのまま書いたというものであった。

 私は生徒たちに、ここで感じたことを大切にしてほしいと思っている。それは私が2年間で教えた詳細な知識よりもはるかに重要なことである。
 遺族がグリーフに陥り、嘆き・悲しみ・不安・自責・無気力・パニック・情緒不安定…といった状態を来たすのは極めて自然なこと、人間としてあたりまえのこと、という人間的共感をもって遺族に接する者になってほしい。けっして仕事に慣れないでほしい。最愛の人を喪ったらと考えるだけでとまどい、言葉を失う感性を大事にしてほしい。

 グリーフサポート、グリーフケアは、遺族に対して何か特別のサービスを提供することを即意味するものではない。しかし、遺族のグリーフに人間的共感をもってかかわり続けること、目線を共有し続けることは容易なことではないだろう。素朴ではあるが最も困難な課題であることも現実であろう。

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