母の弱り方は、スロープを下るようではなく、段差の激しい階段を下るようであった。ちょっと小康状態が続いたかなと思うと、途端に下降し、その変化の様を見ていると、回復ということは考えられず、死が口をあけて母を飲み込もうとしているように思えた。
医師が「この1週間が山場でしょう。覚悟なさってください」と静かに言った。家族はその言葉に頷いた。2~3日と言われても驚かなかっただろう。それだけわれわれ家族の眼には、母の衰弱ぶりが尋常ではなかった。
「点滴を増やしましょうか」という問いには思わず首を振って否定した。
私が否定したのは、母の苦痛をもう終わらせたいと思ったからだ。母の笑顔がもう一度見られるなら、何でもしただろう。だが、ただ息をしているだけの母は見たくなかった。むくろになって生き長らえるよりも、母にふさわしい終わり方をさせたかった。それが「自然にね」が口癖だった母にふさわしいように思えたのだ。もうこれ以上、母を惨めにはさせたくなかった。
後日、妹が言った。「あのときのお兄ちゃんの判断はあれでよかったと思う。でも、私はそこまで割り切れなかった」妹は何か言おうとしたが、私があまりに強く否定したものだから、言うのをやめたのだと言った。
医師が宣告して5日後、母は死んだ。妹は号泣したが、は虚脱状態だった。ただやるせなかった。
「呆けたようで、あなたがどうかしたのかと心配した」とは、後日の妻の話である。「でも、その後は冷静だった。気を張りすぎているのでは、と思うくらい」
自分では、その頃のことが膜がかかっているようで、正確には覚えていない。しかし、一つ覚えているのは「私は母さんの息子だ」と自分に言い聞かせていたことだ。
「会館もご用意できます」と葬儀社の社員は言ってくれたが、母の自室に戻したかった私は、妹にも妻にも相談せず、自宅に戻すよう手配した。
自分の部屋に戻った母は安らいでいた。だが頬のこけようは悲しかった。娘は枕元に座って、母の髪を撫でながらしゃくり上げていた。
夜は母の隣に布団を敷いた。並んで寝るのは50年ぶりか、と思った。母の寝息はしないが、母の存在を確かめていた。闇の中で子どもの頃の私を呼ぶ母の声が聞こえた。あの頃、母は美しかった。結婚した私たち夫婦用にと布団を縫って送ってくれた。お金はなかったが、息子に甘い母だった。晩年、無理やり同居させた。はっきり体調を崩したので、独り暮らしは心配だったからだ。同居しても夜の9時になると自室に引き上げる、という手間のかからない老人だった。
葬式は田舎の住職に頼んだ。私と同年輩で気心が通じていたからだ。しかも寺の墓には先に逝った父が眠っている。
葬式には田舎からも知人が数人かけつけてくれた。うれしかった。その人たちに頼んで、最期の花入れも家族と一緒にしてもらった。
火葬後の骨は少なかった。痩せて小柄だった母らしいと思った。家族で黙って骨拾いをした。その側で田舎の住職が低く読経を唱えていた。