現代葬儀考

死者への悔恨

 

 火葬場の控室で、
「兄さんの人生もいろいろあったけど、最期は実の娘と一緒にいて幸せだったと思うわ。妹として何もできなかったけど、ありがとうね」と叔母に言われたとき、彼女は思わず涙ぐんでしまった。

 父親は、彼女が18歳で近所の工場に勤め始めた頃、突然(当事者にはいろいろあったろうけれど、子どもの彼女にはまさに突然だった)母と離婚した。母は中学生であった弟を連れて家を出た。
 彼女が結婚を急いだのは、父親から早く逃れたいという意識も働いただろう。22歳で当時付き合っていた男と結婚して家を出た。父親は男一人の生活になった。

 彼女は、自分が結婚したのは恋だと思っていたが、それは1年もすると誤解だったように思えてきた。それでもずるずると生活は続いた。彼女は結婚後も仕事をやめなかったし、幸か不幸か子どもには恵まれなかった。夫との間にはコミュニケーションは途絶えたが、それでも表面的には穏やかな生活があった。
 転機となったのは彼女の病気である。長期入院を余儀なくされた。夫がたまに病院に顔を出すのは夫である義務からと顔にかいているように思え、彼女は何もかもいやになった。

 退院後、彼女は離婚し、父親の元に帰った。子どもとはいえ40歳になる娘を迎え、父親はとまどっているように思えたが、父親は何も言わなかった。父親の元へ帰ったのは、他に行く先がなかったこともあったが、父親の、いつも苛立っていたかつての空気がなくなり、むしろ淋しげな、穏やかさを感じたからでもあった。
 70歳の父親と40歳の娘の奇妙な生活が始まった。父親は退職して年金暮らしで、彼女が働きに出るという生活だった。結婚しても仕事をやめなくてよかったと思った。彼女には贅沢ではないが自分で生活する最低限の力があり、独自の世界があったからだ。父親と諍いがなかったわけではない。でも、外で友人と飲んでくれば忘れる程度のことであった。心に淋しさを感じることは度々だったが、家に帰ると灯りがついているというのは安心だった。

 父親ががんで入院したのは家に戻り10年後のことであった。仕事をやめて看護すべきかと迷った彼女に、父親は大丈夫だからと仕事を続けるよう諭した。痛みのコントロールがうまくいってくれたのか、父親の最期は穏やかだった。
 助からないことはわかっていたが、実際に息を引き取った時には激しい喪失感に襲われた。次に彼女を襲ったのは父親への悔恨であった。離婚をして心配させたこと、孫を抱かせられなかったこと、そもそも父親を置いて結婚を急いだこと、最期を充分に傍にいて看護できなかったこと、父親へ優しい言葉をかけることが少なかったこと、父親の病気に早く気づかなかったこと、父親の話の相手を充分にしてやれなかったこと…。

 彼女は自分に「親不孝な娘」というレッテルをはって打ちひしがれ、親戚の目を恐れ、葬儀の時間を過ごしていた。
 叔母の一言が彼女を救った。受け入れてくれた肉親がいたからだ。もう一人いたことに気づいた。父親だ。彼は最期まで彼女の生活を奪うことをせず、そして彼女の傍にい続けてくれたのだった。

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