ある意味で矛盾することである。それを承知で書こうと思う。
葬式で遺族は最前列に座り、最初に焼香あるいは献花し、出棺の際には並んで挨拶し、手に位牌や写真を持ち、火葬されれば最初に骨を拾う。
これらの行為は、葬式に参列した人に遺族であることを表示する行為としてあるだけではなく、遺族自身に「遺族であること」の認識を強いる行為としてある。
「遺族であること」とは、家族を喪失した当事者であるということであり、別に表現するならば、死者は「死んだ」のであり、もう生きてはいないのだ、という事実を突きつけることである。
このことは遺族に死の事実を突きつける葬式の重要な意味である。なぜならグリーフワーク(死別の悲嘆作業)の第一歩が、死の否定ではなく死の事実認識にあるからである。
だが、この葬式で「遺族であること」が、遺族から「葬式における遺族の役割」と認識されると、また異なる問題が発生する。遺族は葬式をグリーフワークの一環として営むのではなく、遺族の役割を演ずることが主になりがちであるからだ。
大切な人と死別した家族は、まずその事実に衝撃を受ける。突然の死の場合には特にそうである。長い介護の場合であっても、医師の告知、呼吸をしない、心臓が拍動しない事実は、それまでとは全く違った、感覚、時間をもたらす。
これは長い介護、苦痛の多い闘病生活のときはいっときの解放感を与えることになるが、虚脱した状態に追い込まれることがしばしばある。
衝撃を受けた遺族はしばしばその事実の否認、打ち消しという行動に出る。あるいはそうでない場合にはその死の事実に圧倒される。
こうした遺族がしばしば見せるのが感情の麻痺である。
この感情の麻痺は、しばしば次のように説明される。それは遺族にとってその喪失があまりに大きいために、それに直面することを本能的に回避して心にバリアを張ったようなものである、と。
医師の死の宣告はある意味で葬式の始まりである。末期の水、死後の遺体の処置が判定に引き続き、連続して行われる。
「さて遺体を搬送する先は?」となると葬祭業者の手配が生じ、葬式の打ち合わせ、僧侶への依頼、枕経、親戚・知人への連絡、死を知った人からの問い合わせ、葬式の日程の確定、納棺、通夜、葬儀、火葬…と待ったなしに葬式の行事は進行していくことになる。
それはあっという間に進行するのだ。
遺族はここで喪失という現実に立ち向かうのではなく、葬式という行事に集中し、自らが遺族としての役割を滞りなく終えることを考え、演じがちである。また、親戚縁者もそのように遺族に要請しがちである。
このような危険性を、葬式という行事は背負っている、ということを承知しなければならない。
行事としての葬式を否定する心情の一部には、こうしたものへの反発があるのではないかと感ずることがある。
葬式において、あえて遺族が遺族の役割を演じることから解放すること、これは葬式の運営に携わる宗教者や葬祭業者の大きな課題としてあるように思う。