弔い」は「人の死を悲しみいたむこと」であり、「悔やみ」は「人の死を惜しんで、とむらうこと」(いずれも岩波国語辞典)、何やらよく似ている。だから「友人の死を弔う」とも「友人の死を悔やむ」とも言う。いずれも「葬式」の意味でも用いられる。
だが、私の感じでは少し異なる。
「弔い」は死者のために遺された者のなす行為であり、「悔やみ」は遺族に対してなす行為ないしは言葉であるように思う。これはどれだけ客観性をもつか、はなはだ自信がないが、私にはニュアンスの違いがある。
葬式とは元来この2つの意味があったのではないか。つまり死者に対して悲しみ惜しむことと、遺族となった家族の心情をを慮る、という2つの面である。
葬式の焼香の動作を見ていると、死者に向かっての焼香と遺族に対する挨拶が対になっている。あれは死者への焼香が、私の言う「弔い」であり、終えた後に遺族に向かって礼をするのは、遺族への「悔やみ」であろう。
最近の焼香の動作は著しく過剰になっている。最初に立つ喪主が参列者に礼をしてから焼香し、終わった後にも礼をするのは、最初の礼は「皆様故人の弔いのために参じてくださりありがとうございます。お先に焼香させていただきます」という意味であろうし、終わった後の礼は「お先に焼香させていただきました。皆様も焼香してやってください」という意味であろう。後の遺族が焼香の前後にする礼は「お先に失礼します」「お先に失礼しました」くらいの意味だろう。
では、一般の会葬者はどうか。同じように焼香の前後に礼をし、おまけに遺族席だけではなく、一般会葬者席にも礼をしている人が少なからずいる。「一応頭を下げておけば失礼にならないだろう」と思う人、また、「皆がやっているから合わせただけ」とする人もいるだろう。
だが、私が思うに、一般の会葬者は前の礼は不要である。まず焼香し、死者を弔い、終わった後に遺族に対して悔やみの意味の礼をするのがいいように思う。
なぜかというと遺族への配慮である。前後に礼をすると遺族は2回礼を返さないといけなくなり負担である。会葬者側への礼は不要。皆弔うという立場では同等である。
弔いと悔やみは並立するのが一般だが、中には困る例もある。故人と親しかったが、故人が生前家族と不仲であった場合である。遺族には悔やみを言いたくないという場合である。大人げないと言われるだろうが、こうしたケースはけっこうある。その場合、葬式自体への参列をやめようか、とも思うが、私は参列することを選択する。遺族に対する悔やみよりも死者自身への弔いを優先させるからである。
葬式は、何よりも死者のためにあると考えるからである。
最近の家族葬ブームの中で危惧することは、遺族の「面倒は嫌」という都合だけで「簡単」な家族葬を選択し、死者の交遊関係を断ち切るケースがまま見られることである。
葬式は何よりも死者を弔うためにあるので、遺族の都合で行われるべきではないだろう。しかし、同時に遺族のグリーフも思いやる葬式が理想ではある。