「高齢者に対する虐待が2006年度、家庭内で1万2575件、施設内で53件の計1万2628件あったことが21日、厚生労働省が高齢者虐待防止法施行後、初めて行った全国調査で分かった。家庭内における虐待者は息子と夫で半数を占めた。市町村の9割以上に対応窓口が設置されたが、早期発見・見守りの体制づくりに取り組む市町村は4割弱にとどまるなど、自治体の課題も浮き彫りになった」(読売新聞9月22日)
各紙がこの問題を大きく報道したが、これは氷山の一角であり、残念ながら今後ますます増えていくであろう。
また同紙では「一方、虐待を受けた高齢者は女性が77%を占めており、84%が同居している人から虐待を受けていた」という実態も記している。高齢者に占める女性の割合は高い。したがって女性の被害者がどうしても多くなる。寝たきりになり、あるいは認知症になり、同居している家族は疎ましく感じるようになる。力がない高齢者、特に女性はその被害を受けやすい。
高齢者虐待は犯罪である。家庭で役に立たない、世話がかかって迷惑するということで、同居の家族が激高し、虐待を行う。それが一時的な発作的行動ではなく、日常的に繰り返される。
加害者である家族は自らを加害者として認識していないのだろう。むしろ高齢者の存在によって迷惑を受けている立場、被害者であると思っているのだろう。
虐待に至らないが、高齢者に対する冷淡視はさらに多いと思われる。「仕方がなく介護している」と思っている家族は多いだろう。
確かに高齢者の介護は大変である。体験すればわかる。口で言うほど易しいものではない。介護する者の体力をボロボロにする。精神的にも大変である。
介護する家族が愛情と同時に、あるときは怨嗟の想いを抱くこともある。「家族だから」という言葉がいかに甘いかを認識させられる。多くの高齢者はだから「家族に迷惑がかからない死」を願う。現代だけではない。昔から自分の安楽死を願う高齢者は多かった。
介護する人だけが大変なのではない。介護される方も大変なのだ。自らの尊厳に目を瞑り、介護されることに耐えなければならない。
戦前には80歳を超えた長寿は珍しかったので、長寿の方が亡くなると葬式はお祝いの場と化することもあった。いまや80歳以上での死が全体の死の半数に及ぶかという勢いである。
最近の葬式の小型化の動向には、葬式の社会儀礼から個人儀礼へという流れがある。そして家族が愛着をもって別れることを大切にするようになったこともある。だが、それだけではない。
超高齢者の長寿を祝うのではなく、厄介事が終わり、残務処理としての死体処理という場合も少なくない。遺族は淡々と片付け仕事として葬式をこなす。
これは葬式だけがいのちの尊厳をなくしているのではない。高齢者の介護現場からくる問題である。そしてこの問題は日本人が高齢社会になって初めて体験していることである。
事故のようにあっけない死がある一方、死ぬということが本人にとっても家族にとっても大変な時代を迎えている。