現代葬儀考

気になる「通夜式」「お清め」「感動演出」

 

 以前にも書いたが、最近気になることは次の3つである。
①「通夜式」という表現
②東京での「お清め」という表現
③「感動を呼ぶ葬儀」演出

 ①「通夜式」という言葉は不快である。葬儀式ではなく、通夜に多く会葬者が来るようになった結果、見せる部分を葬儀式から通夜に移し、「通夜式」と言って麗々しく演出しようという魂胆が丸見えである。

 地方によっては骨葬地域で火葬を済ませた後に、遺骨でもって通夜を行うこともあるが、いくら地方の習慣であれ、これもおかしい。「地方の習慣」といっても、古いものではない。戦後その地方が土葬から火葬に変わった段階で、「葬儀の前が通夜」という理由だけで行うようになっただけである。

 キリスト教のプロテスタントの教会では通夜を「前夜式」と呼んでいるがこれもおかしい。
 近親者と死者の最後の別れの場という本質を弁える必要があるだろう。

 通夜に親しい人たちだけでなく、一般会葬者が来るのは、来るほうの勝手で、このために通夜の本質を歪めてはならない。本来弔いと別れに専心すべき遺族に対して余計な心理的負担をかけてはならないと思うのだ。

 ③東京での「お清め」は、いい加減やめてほしい。死の穢れを清めることから始まったもの。近代以前の感覚を未だに引きずっているのはいかがなものか。一方で「死者の尊厳」が語られながら、それを貶めるようなものではないか。

 この話を東京の葬祭業者にしたら「代わりの表現」を求められた。通夜の後であれば「通夜振る舞い」があるし、葬儀終了後であれば「お斎」という言葉がある。「軽食」「会食」という普通の表現でもいっこうに差し支えない。

 ②「感動を呼ぶ葬儀」演出―これは関西での司会者による遺族代表挨拶の代行から始まり、ナレーションで故人の人生を振り返り、泣きをとるまで、今まで散々行われてきた。

 会葬者に故人の略歴を書いた紙を配ったり、司会者が故人の略歴を紹介したり、友人や遺族が故人について語ったり、故人のさまざまな場面での写真を展示したりはいい。だが、第三者である葬祭業者がする「あえてする感動づくり」「泣かせるための演出」は不要である。

 その人の死―という事実以上に厳粛なことはない。その事実にきちんと対峙することが必要である。宗教儀礼はそのためにこそ存在すると言ってもいい。
 近親者が安心して泣ける空間にすることは大切だが、泣くことを人為的に煽ってはならないだろう。

 結婚式の披露宴からの連想で「感動づくり」が流行っているようだが、勘違いもはなはだしいと思う。
 遺族や死者と親しくしていた人たちが死者の弔いに専念できる空間づくりがもっと配慮されるべきなのだ。

 そうなっていないことが、「煩わしい」と、近親者による家族葬が選ばれる要因の一つになっているのではないか。
「葬儀での感動づくり演出」は、過去、華美な祭壇や霊柩車で犯した勘違いを繰り返すだけのように思えるが、いかがだろうか。それとも私の頭が固いのだろうか。

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