現代葬儀考

難民化する高齢者とその死

 

 例えば150年後、いま地球に住んでいる人で生きている人はいない。
 人間の生命は限られている。ここに例外はない。古代においては不老不死を権力者が願ったことがあるが、叶えられたケースはない。例外なく人間という生命は個体としては死を免れない。

 個体としては死ぬが、人類そのものは環境が許されれば生き延びる。しかし、これも永遠にではないようだ。地球が人間の生存を不可能にする時代が、いつかわからないがやってきそうである。
 人間の細胞も死と再生を続けている。死につつあるのが現実である。
 そういう限られた生命だからこそ、そのあり方は尊重されなくてはならない。人生の成功者だけではなく、そうではない人も平等に尊重されるべきである。
 生命の長さを単に競うのも無意味である。日本は戦後、医療や生活環境がよくなり、世界でも一、二を競う長寿国になった。だがこれまで未体験の高齢社会になり、これはさらに進むことが予測されている。だがここに幸福感は必ずしも高いものではない。

 今や全死亡者の47%が80歳以上の高齢者の死亡者が占める。早晩5割を突破するであろう。
 高齢になれば認知症になる確率も高くなる。
 高齢者、特に重篤な病気を有している場合、自宅で死を迎えたいと願っても、家族の負担、急な病状の変化に耐えられないだろうと、仕方なく病院や施設での終末期を選択しようとしている。何か長寿であることを喜ぶのではなく、家族や社会に迷惑をかけている存在であるように認識している。家族も周囲も疲れている。介護保険制度ができても安心して自宅で老後を過ごせているわけではない。

 行政は、高齢者が医師と相談のうえ尊厳死を意思表示するなら、病院などに診療報酬が支払われるという施策を打ち出した。ある意味で病院から高齢者、治療の見込みのない重篤な患者を早く死なせ、厄介払いしようとする戦略だ。また、行政は在宅介護の準備が充分でないのに高齢者の長期病院入院を許さない方策を打ち出している。

 これからは高齢者の難民化が進むであろう。今、病院から追い出された高齢者は老健施設に追いやられている。病院の看護体制も過酷だが、老健施設の介護体制はさらに過酷である。
 自宅といっても介護する者がいなかったり、いても老々介護になり、夫婦共倒れの危険がある。孤独死を余儀なくされる人も確実に増える傾向にある。

 高齢化しても、それを支える家庭や社会が対応できないのであれば、高齢化は必ずしも幸福ではない。高齢者は今、家族にも、病院にも、老人施設からも、行政からも早く死ぬことを期待されている存在である。もちろん、そうならないために苦闘している医療関係者、介護サービス関係者がいることはいるのだが。

 高齢者の死が厄介ごとからの解放とばかりに死体処理されていくのは残念ながら予測されるし、現に発生している。その前では個々の死者の生の歴史も人格も見事なまでに切り捨てられている。
 葬送は今や覚悟である時代にきた。死者の人格・歴史・存在を尊厳をもって受け止め、次の世代や社会にいのちを受け渡す覚悟である。

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