現代葬儀考

「歯がゆさ」は何に起因しているか?

 

 真宗大谷派の宗務総長に再任された安原晃氏が「仏教離れといわれ、宗教は敬遠されているといわれるが、本当にそうか。現代の社会、世界は痛ましいことばかり。その中で宗教を敬遠しているのではなく、むしろ本当の宗教が求められている。だがそれが見つからない。そういう歯がゆい思いの方が多いと思う」(「中外日報」平成21年10月24日号)とインタビューに答えている。
 宗教宗派の各教団の関係者は歯がゆい思いをしているだろう。欧米でも日曜日に教会に行く人は激減している。日本でも仏教だけではなく、キリスト教も、さらに新宗教と言われる創価学会や立正佼成会等も伸び悩んでいるようだ。オウム真理教事件は、日本人に「宗教」離れを促す決定打となった。

 江戸末期から戦後高度経済成長期までは、新しい教祖宗教が勃興して神々が生まれ、廃仏毀釈というおどろおどろしい宗教弾圧があり、近代文明と共にキリスト教が入国し、国家神道の成立と解体、擬制共同体として新宗教が人々を虜にし、宗教は社会不安の逃げ処であり、国民共同体の象徴として荒らしくあった。宗教に政治が介入し、苛烈な弾圧を受けた時代もあった。
 
 しかし、現代日本では「宗教」はどうだろうか。
「宗教」とは「何か怪しい信仰」のことで、「良識ある」人々は関係してはならないもの、とされた。彼らにとって「仏教」とは「宗教ではない何ものか」であり、観光先であり、お寺の深い緑は癒され処であり、死者の供養をお願いする先である。「キリスト教」だってそうだ。信仰なんて「アーメン」と言えばよく、チャペル(けっして「チャーチ」ではなく)の荘厳さは結婚の誓いの場にふさわしく、ウェディングドレスの着用は女性の夢であり、また、クリスマスや母の日は華麗な祭りである。神社も冬の寒い時刻にする清々しい「初詣」や家内安全、商売繁盛、必勝、合格の祈願先である。春・夏・秋の祭りの神輿は欠かせない。

 宗教者は仰々しく「宗教」「信仰」と言っているが、人々にとってはそれぞれが現代日本社会に溶け込んだ「文化」であって、オウムのような危険さがないだけ安全なのだ。
 一年は無事に過ぎていく。神社も商店も仏教も街もキリスト教も四季のうつろいの中に溶け込んでいる。「宗教って何だ?」などという面倒臭い問いをもたなければ、この共存、日本文化も欧米文化も取り込んだ快適空間である。騒いだ後の静かな夜に、池に水の雫がたれる音が聴こえれば、何か心が落ち着く。これが日本的「スピリチュアル」な気分なのだろう。

 こうした「こころの安心」が、社会経済の現実的不安と共に、今、それぞれの個が孤立したままで、音をたてて崩れ落ち、支え手を失っている。依存する企業も地域共同体も人と人の交通・交流もなくなろうとしている。そして人々のこころの中で、独自な新たな「宗教に似たもの」が誕生している。それが「スピリチュアリティ」というものの実態ではないだろうか。いずれにしろ、既存宗教宗派の教団は無力で、ただ自らの衰退を嘆いているばかりだ。こういう危険いっぱいな時代に葬儀の個人化と宗教の問題は置かれている。

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