「間違っても戒名はつけてくれるな」
と知人は病床で妻にきつく言っていた。
しかし、菩提寺の30代の若い住職は「戒名なしでは葬式できません。またうちの寺の墓には入れません」と、枕経の席で冷たく言い放った。彼の遺志は簡単に斥けられた。
確かに、寺院側の理屈から言えば、戒名を授けて仏弟子にして送ることに仏教葬儀の本意はあるのだから、戒名のない葬式に意味はないだろう。また寺院にある墓地は、信者である檀信徒に寺が貸し出すものであるから、「戒名をつけない=仏教徒ではない」人に貸し出すのは名目に欠けている。その意味ではその30代の住職の論理に破綻はない。
遺族は反論ができないが、釈然としないまま、その菩提寺の住職に葬儀を依頼し、戒名をお願いした。
住職は「今夜まで戒名を考えておくので、寺に取りにくるように」と言って帰った。
その夜に寺を訪れた故人の妻に、住職は白い紙に書いた戒名を示した。院号がつけられ居士号が付いた立派な戒名であった。
おそるおそる訊ねた故人の妻に、住職は「代々の檀家さんだから、特別に院号居士をつけさせていただきました。戒名80万円、葬儀は2日間で30万円、合わせて110万円を明日の通夜まで用意してください」と淡々と答えた。
妻はその数字を聞いてめまいがした。遊休の土地はあるが現金はない。もう10年前から年金暮らしだ。春秋のお彼岸に5千円包むのもやっとだというのに。住職だってうちの地味な暮らしぶりを知っているだろうに。聞くうちに腹が立ってきた。そしてわかった。なぜ夫がそこまで「戒名なし」に拘ったのかを。
夫は仏教嫌いではなかった。というより熱心な仏教徒であった。「念仏を唱えていると心が清浄になる」と常々語って実践していた。しかし菩提寺には辛口だった。「あそこの住職は二代にわたって不信心だ。法話ができないのも親子共通している。不信心な住職に戒名つけられるなんてマンガだよ」
彼女は静かに頭を下げた。「住職に戒名をつけられると夫に叱られますので、お断りします」
通夜、葬儀は夫の友人の僧侶が勤めてくれた。彼は「私は導師ではない。友人として勤めさせていただく」と言い、包んだお金を中身も確かめずに受け取らなかった。
確かに寺は、葬式や法事のお金で支えられているのだから、寺を支える檀家としては応分の負担をするのは当然だ。
支え支えられるのが「寺檀関係」というものだ。それも「寺の活動が大切だ」「寺の存在に意味がある」という前提のことである。
寺が寺らしいこともせずに、お金だけ檀家から集めることのみに執着するなら、檀家にも寺の財政を負担する理由はない。
「献金」は、ある活動を支えるために集め、差し出すお金である。「政治献金」は別として、ボランティア活動への献金は見返りを求めない。寺への布施は本来こうしたものなのだ。高橋卓志(臨済宗僧侶)は「ボランテラ」を提唱する。
寺が今人々から冷淡視されることが多い原因の一つは、寺の存在意義が見えてこないからだ。