乳幼児死亡率(5歳未満児死亡率)は1000人の子どもが生まれ、そのうち5歳末滴で死亡するのが何人いるか、というデータである。子どもの生きやすさ、生きにくさを端的に表す統計である。
ユニセフの『世界子供白書特別版2010』によると、2008年段階の推計値であるが、アフガニスタンが最も高く257で、次がアンゴラの220とアフリカが続く。ランダムに拾うとケニアが128、カンボジアが90、ネパールが51、ウズベキスタンが38、中国が21、ロシアが13、米国が8、スイスが5、日本が4。いちばん低いのがリヒテンシュタインの2である。
先進国が低く、発展途上国が高いという、社会環境がそのまま子どもの生きやすさ、生きにくさに反映している。
日本の4という数字は著しく低い数字である。だが日本でも元々こうであったわけではない。
「乳児死亡率」というデータがある。乳児死亡率とは、「年間の1000出産当たりの生後1年未満の死亡数」を指す。日本の2000年のデータは3・2、つまり1000人生まれて1年以内に死亡する乳児が3・2人の割合だということだ。この年の出生数は119万547人で、死亡した乳児は3830人であった。
乳児死亡率の推移を見ると、1980年が2000年の倍の7・5、1960年がさらに80年の4倍強の30・7、戦前の1940年は00年の約3倍の90・0、大正期の1920年は40年の1・84倍の165・7であった。乳児の死亡率は高く、大正期以前は出生した子どもの15%程度が死ぬ世界であった。
東南アジアの国で「子どもの葬式はしない」という例が新聞で紹介されていた。そこには「また生まれてくることを願って」しないのだ、と語られていた。
この記事を読んで「昔の日本と一緒だ」と思った。日本でも乳幼児が死ぬと、その子の再び生まれかわることを願って葬式をしなかった、しても半人前だった、という。これは一見すると子どもや子の親への優しさが溢れた習俗と見える。
しかし、その「やさしさ」とは男性のものであり、女性の、母親のものではなかったのではないだろうか。
子を亡くした母親の喪は10年経過しても明けない例が少なくない。水子供養に匿名で寺院を訪れる女性は少なくない。「この子」を亡くした母親の悲嘆の痛切さを知って、それを封印するための習俗だったのではないだろうか。そう考えれば罪つくりな習俗である。
「社会環境が厳しければ子どもは生きにくい」と統計的には言える。社会環境が劣悪なとき、「だから仕方がない」と納得を強制するのではなく、その子のために悲しみ、弔い、その辛さを共有する社会でなくてはならないだろう。
「仕方がない」「運が悪い」を言い出したら人の死はみなそうだ。「長生きしすぎて迷惑をかける」と嘆く高齢者も多い。でも「ちょうどよい死」などというのはない。死はそのまま受け止めるしかなく、そこに嘆きがあれば嘆くのが人間として自然なことである。
もし、たまたま、いい死に時で家族が納得できる死であったならば、笑って感謝する葬式であってかまわない。素直に感情を表すことが大切で、それを妨げるのが最もよくない。