現代葬儀考

変わる終末医療―でも、死はなくせない

 

 近年の医療技術、薬品の開発はめざましいものがある。
 がんも種類によっては初期段階であれば治る事例が多くなった。かつてはがんと診断されれば治らないもの、と諦めてしまったものである。それゆえ医師はがんの宣告を最初に患者にするのを回避し、家族に相談する。それを聞いた家族はどうしたものかとさんざん悩み、「本人が病気と闘う意欲を失う」というので、胃がんであれば胃潰瘍とかその患部の病名を医師に言ってもらう道を選択する。

 患者が疑って「自分はがんではないのですか」と尋ねると、「大丈夫、治ります」と言ってごまかす。
 しかし、治る方向に進まないと患者はがんであるという疑いを強くする。そして医師だけではなく家族も自分に嘘を言っていると疑う。しかし「ほんとうはどうか」と尋ねて、「ほんとうはがんです」と伝えられたらどうしようか、と迷い、その疑いを口にできなくなる。家族も患者のがんが進行するさまを見て苦しむ。そこで次第に少しずつ医師も家族も患者を訪問する足が重くなり訪問頻度も少なくなる。
 患者もその家族も真実に蓋をし、適当に天気の話などして、心に重荷を抱えながら、その場を紛まぎらわす。
 患者と家族は心を通わせることなく、死の時までストレスを抱え続ける。

 このような終末期がいいのか、という問いが発生する。
 アメリカでは家族ではなく本人への告知を早い段階から行った。医療や家族側にそれをサポートする姿勢がなければ告知が解決策になるわけではない。
 キューブラー・ロスが『死の瞬間』で描いたのは、がん等の告知を受けた患者本人のたどる心的プロセスの典型である。①否認と孤立、②怒り、③取引、④抑うつ、⑤受容…がそうだ。ロス自身が「このとおり進むとは限らない」と言っている。

 今では治療の選択肢が増えて、ただ死を待つだけではなくなった。「希望のあるうち」は積極的に患者本人に告知するケースが増えている。そして選択肢においてどうなるかの情報も与え、いわゆるインフォームド・コンセント(情報開示と同意)に基づく治療が進んでいる。

 私の同級生は「がんだが初期」と告知され入院、手術。「摘出手術は成功」と言われ、退院して、念のためにと月に1度程度抗がん剤治療をするが、数年後に再発・転移と言われ入院、そして死亡、という、判で押したよう最期だ。でも本人たちの気持ちは多様だ。「なぜ俺が」と怒って死ぬ者、受け容れて死ぬ者、自暴自棄になる者、抑うつなまま死ぬ者。

 時折「画期的」な療法が生まれる。まだ保険の効かない治療に大金を投じる者もいる。がんだけではないのだが、どんな画期的療法も、死をなくすることはできない。それは自明なことなのだ。
 人の生死は極めて偶発的なものに左右される。このことを3・11東日本大震災がいやというほど教えてくれた。

 親鸞があの生きにくい中世で90歳まで生きたことを「親鸞さんだから90まで生きた」と言う人がいる。いい加減にしろ、と言いたい。偶々のことが重なっての長寿も昔からあったが、それは本人の価値とは無縁だ。早死も本人の価値とは無関係なように。死は価値から最も遠いものなのだ。

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