これからのお墓を考える

─「お墓と生き方を語る集い」を開いて

日蓮宗妙瑞寺住職「お墓と生き方を語る会」代表 菊地泰啓

■累代墓が抱える問題

 何もかもがめまぐるしく変化していく現代において、お墓だけは旧態然として何も変わらないでいるような印象がある。
 一般の多くの人はまだ、昔からの累代墓が未来までも今後ズーッと変わらなく続いていくように思っているのではないだろうか。
 
 しかし、現実のお墓をめぐる環境は、そう楽観視はできない。むしろ今日では、慢性的な問題を抱え込んでしまっていると言っても過言ではないと思う。
 高齢化、核家族化、少子化といった家族の姿が大きく変化してきた様は、都市部や地方の区別なく、今やどこでも身近なものとなった。
 
 現行の民法上では家族は「不連続化」の傾向を強め、かつての家制度に見られるような、家の永続性を当然とする意識は薄らいでいる。
 子供のいない夫婦、シングルの人、子供がいても娘だけの家にとっては、代々跡継ぎを決めて永代に「連続」させなければならないお墓の継承システム自体、問題と言える。
 また、少子化によって、お墓や仏壇を抱えた長男長女どうしが結婚することとなり、一つの家族が二つ以上のお墓を抱えることになってしまう。
 家族のかたちは変化してきているのに、未だにお墓に関しては、家意識に支えられた累代墓しかほとんど選択できない。これはどう考えても変だ。

■墓を通して生を考える

 そんな思いから、先日、大分市内において「お墓と生き方を語る集い」という小さな集まりを開いた。生き方を語ると言っても、こちらから一方的に話しかけるだけの集いではない。
 さまざまなケースの中でお墓の問題で混乱している人たちは、私の住んでいるこの町にも、おそらくたくさんいるはずである。まずはそうした人たちと一緒に集い、従来のあり方から出てくるお墓の問題について意見交換ができる場をもちたいと思った。
 私たちの生の延長線上にあるお墓について、また変わりうるお墓のあり方について共に考えていくことは、まさにそれぞれの生き方を語ることにつながる、という思いで呼びかけた会である。
 家名の存続も困難になり、人々の生き方も多様化してきた現在、お墓についても、普通の人たちがもっと身近に考えていく時期に来ている。

■個が反映されない

 お墓だけでなく、葬送全般について言えることだろうが、僧侶や専門業者によってだけで、つくられるものではない。
 これほど自分らしさや個性について考えられる時代になっていながら、葬送においては自分たちの生活感覚、家族としての関係性が反映されにくい。この現状は一体何なのだろう。
 
 一つには、僧侶側にも、宗教儀礼に対する保守的なこだわりがあって、新たに創造することを拒む要因があるのも事実であろう。
 また一つには、お墓や葬儀の周辺には、やたらと迷信やまじないと思われる事柄が、不明確なままタブーとして多く存在していることがあげられる。
 宗教に対して無関心な人々は、葬送についても何か自分とは縁遠いものだと思われがちのように見受けられる。また一方で、さまざまな因習を盲目的に受容する人々もいる。
 いずれにしても、そうした関わり方では、いざ自分がその場面に直面したとき、結果的に今までと同様にタブー意識に振り回されてしまうことになる。

■墓も変わるべき

 従来の葬送のあり方が機能していないわけではない。けれども、それらが家という枠組みの上に成立するかぎり、死者生者共に癒されていく葬送の環境は、どんどんその機能性が失われてしまうのではないだろうか。
 家族の変化は、今や老後の問題だけではなく、葬儀やお墓までも、私たちの生き方に新しい選択を要求しているように思われる。
 具体的に述べると、妙瑞寺では、累代墓に変わりうるものとして、新潟県妙光寺で展開されている「安穏廟」をモデルに学び、大分の地域に合った合祀墓を実現していきたいと考えている。
 今までの「家の墓」でなくなることで、維持管理を託さなければならない継承者の選定に苦心することもなく、家族の変容にも差別なく対応することができるようにしたい。

■檀家制から会員制へ

 また、できることなら、お墓を見直すことで、同じく家意識でくくられている檀家制度、寺全体のあり方について検討してみたいと考えている。
 地方都市大分でも、郡部では高齢化がかなり進み、県全体の高齢化率は全国平均を上回っている。その反面、大分市では、四十歳代をピークに年齢分布が構成され、人口も増加している。平成七年の数値で見るなら、高齢化率の全国平均が一四・六%、大分県が一八・六%、大分市が一一・九%となる。
 全体的に高齢化が進んだとみられる県内においても、地域によって、家族構成の特徴がこれだけ大きく異なるのだ。
 この特徴は、そのままお寺の実状となってくる。家単位で檀家を数えるかぎり、数的な変動はそれほどなくとも、郡部では継承者のいなくなった老人世帯が増え血縁も途絶えがちとなり、先行きに不安を感じる人たちは多い。
 市内では、若い世帯が移り住んできているとはいえ、家族の死などのきっかけがなければ、積極的にお寺に縁を結ぶ人たちは少ない。村に見られるような昔ながらの共同体的なものは拒否されがちで、地縁は薄れ、○○家という感覚も儀礼の場以外では日常生活の中に皆無に近い。
 郡部であれ市内であれ、どちらにしても家を単位とする檀家制度は、家名存続の安定性等もなくなっていることから、経済基盤として曖昧なものとなってきている。
 
 それに増して、檀家=活動基盤とも言い切れない。檀家のほとんどは、葬式、法事、盆、彼岸といった、半ば習慣化した仏教行事による祖先祭祀が中心となって、寺と緩やかにつながってきた。
 仏教理念の理解や実践、社会問題に対する寺院活動への協力等は、檀家だからということではあまり意味をもたなくなったというのが現状である。
 檀家制度は運営の基盤としては、実にはっきりしないものになってきているのだ。
 寺の活性化という点でも、檀家という実態のつかみにくい言葉で、賛同者や理解者、協力者等をまとめていては、お寺の活動をさらにわかりにくいものにしてしまうのではないだろうか。
 将来的には、会員制による寺院運営が、そこに集う人たちとの相互の関係がわかりやすく望ましいと考えている。

■開かれた寺を目指して

 寺との接点が明確になれば、寺にとって運営基盤がより安定したものとして把握しやすくなり、活動面でも経済面でも理解と協力を得ていける。ここに「開かれたお寺」が実現できるのではないだろうか。
 葬送の分野では、宗教者や専門業者や、当事者となる一般の人々からも、従来のものに変わる新たな試みがいろいろと行われてきている。
 全体的にはまだ、理想的なあり方を模索している途上にあると言えると思う。
 この模索の中で私は、妙瑞寺において、合祀という新たな結縁の墓を実現する試みに取り組んでいきたい。
 
 多様化した個々の生き方を尊重し、旧来の宗教的な儀礼の型にやみくもに押し戻すことなく、新しい関係を築くことは可能なはずだ。
 伝統の中で儀礼と共に育まれた仏教のもつ癒しの機能を損ねることのないよう配慮しながら、寺と仏教のあり方を問い直していきたいと考えている。

●「お墓と生き方を語る会」では、1997年3月15日(土)午後2時より、大分県総合社会福祉センター大ホールにおいて、お墓シンポジウムを開催した。
テーマは「老後の自立・死後(墓)の自立を求めて―これからの老後と墓を考える―」。特別講演は評論家の樋口恵子さん。

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