これからの寺と墓─安穏廟の実践を通して─

’94妙光寺の夏ー老後の自立・死後の自立 より(雑誌SOGI 93・11より転載)

小川英爾  日蓮宗新潟県角田山妙光寺住職

■安穏廟の意図

 八九年八月に安穏廟を開設した当初、主旨が理解されて一〇八区画全て申し込みで埋まるのに十年でいければいいほうと考えていた。しかし予想に反して、まるでブームのように永代供養墓が話題となり、四年足らずで満杯。現在は二基目を受け付けている。
 これで、収益金の全額を基金として運用するという計画も順調に運び、九三年春には『安穏基金管理運用規則』もできた。計画当初の夢物語が一挙に現実化したことになる。
 安穏廟を「寺の墓地不足を解消する少スペースの墓」、「跡継ぎ不在でかわいそうな人たちのための永代供養の墓」だとするのは一面的な見方に過ぎない。むしろこのような事態を生じさせている現行の墓制度の見直しと、これに依存する寺のありようを考え直そうというのが本来の主旨である。

■家の墓の限界

 衆知のように、現在の墓制度は、徳川期の檀家制度によって寺に墓が集まり、明治期に家制度によって天皇制国家の確立を目指した政府が、明治三一年施行の民法で「系譜、祭具および墳墓の所有権は家督相続の特権に属す」と規定したことで、墳墓は「家の墓」として先祖代々を継承するものという考えの上に成立してきた歴史がある。ここに<家制度-墓-檀家制度-寺>という図式が成立し、寺の存在はこの図式なくして語ることができない。
 
 しかし戦後四十数年経過することにより、新憲法による男女平等や新民法による家制度否定といった意識が定着し、加えて経済的には豊かさの実現といった社会状況が、古い体質を引きずったままであった墓制度の問題点を表面化させるところとなった。具体的には高度経済成長期以降の人口移動の拡大が過疎過密を生み、先祖伝来の地で家の墓を守ることを困難にさせた。
 また女性の高学歴化、社会進出による自立志向が、晩婚、非婚、少子化、核家族化現象を押し進めるところとなり、家制度を実質的に成り立たなくし、ひいては家の墓の継承を難しくさせた。これらを背景に、これまで「家」という観念の中で不当な差別を受けてきた女性の側から、旧来の「家の墓」に対しても大きな問題提起が引き起こされている。
 
 こうして「家の墓」が揺らぐことで、これまで墓を人質ならぬ墓質のごとくにして、檀家制度に依存してきた寺が、その存続すら危ぶまれるところとなった。
都市寺院では、檀家の核家族化と居住地の拡散、高齢化が収入減を招き、この結果一部での高額な布施の要求となり、その姿勢が人々の寺離れを生むなど、葬式仏教としての寺が問われるところとなっている。
 一方過疎地で進む寺の崩壊は、寺の危機の顕著な例証で、文字どおり倒壊して柱だけが傾いて残る無残な本堂の姿を、各地で見ることができる。そこの周囲には必ずと言っていいほど放置された墓が草むらの中に散乱している。ここまで至らなくとも、寺の後継者が確保できない地方寺院の窮状は、各教団にとって今大きな問題となっている。

■檀家制度の問題

 だが、過疎地寺院の困窮を、人口流出による寺院経営の破綻によるだけとする見方はその本質を捉えていない。根本的な原因は、檀家の人たちに墓を象徴とする先祖の系譜に固執する家意識が強いため、寺本来の釈尊の教え、宗祖の教えを伝えるべき布教活動を阻害しがちであるという檀家制度の保守性にあると分析される。
 その証左に、教団の側が寺の都市への移転や寺の統廃合といった対策を考えると檀家の人たちの「先祖の寺」という意識から猛反発を受ける。あるいは住職の努力による新規檀家の獲得に対し、旧来の檀家から一族以外の受け入れを拒否されるという例すらある。その寺の成立が当初から一族の霊を弔うという目的だったりするとなおさらである。
 
 秋田県の村で住職不在が長期化した寺があった。ある年台風で本堂が倒壊したのを機に、百軒近い檀家の全てが、隣村にある同宗派の寺でなく、同じ村の他宗派の寺に檀家としてそっくり集団で移った。そのほうが墓に近いからという理由であった。これは寺を支えるものが宗派の教えという信仰であるより、家意識、祖先崇拝であり、これが優先しているという事実を物語っている。
 一方で地縁、血縁意識の薄い流入人口を抱える都市寺院の活況は、高い布施収入と不動産収入によるもので表面的なものに過ぎない。特定の宗教との関わりを持たない宗教浮動人口と呼ばれる人々を目の前にしながら、積極的な布教活動は専ら新宗教、新々宗教にお任せの状態になっている。

■理想は合祀墓

 かような事態の中で、これからの寺での墓のありようを考えたとき、とりあえずその理想とする形は合祀墓ではないだろうか。それは近頃増加しているという、跡継ぎがいないなど既存の家の墓に入れない、かわいそうな人のための合祀墓では決してない。それではどの寺にもある無縁供養塔となんら変わりはない。ここで言うのは既存の個々の家の墓を廃し、一か寺一墓とする合祀墓である。
 
 この合祀墓によって人々の墓への多額な金銭負担を減らし、余剰金があればその志に応じて寺の布教活動に献金していただく。跡継ぎの心配もなく、そうした継承をめぐるトラブル、さまざまな執着とも無縁になる。さらに寺は墓地管理者の雑務から開放され、墓地を廃した境内地を布教のために有効に使えるようになる。決して美しいとは言えない今の墓地の景観を改め、美しく心安らぎ開かれた境内を目指すことも可能になる。
 合祀墓であっても個人毎の命日の供養をすることは可能であるし、何よりも合同祭祀が可能になる利点は大きい。墓地不足に悩む各地の自治体が合祀墓を考えたときにネックとなるのがこの合同祭祀の宗教性と、合祀に対する抵抗感だと聞いた。一つの寺に自らの意思と、仏縁で集まった人たちが合祀されることになるなら、なんの抵抗があろうか。
 
 ここでは祖先崇拝を否定するつもりはない。系譜にこだわる家中心の執着としての墓を否定しているのである。系譜に自己の存在の確認を求めるとするなら、なんらかの形で記録を残せば解決するのではなかろうか。墓に心のふるさとを、自らの原点を求めるならば、合祀墓でも可能である。むしろ寺自体が人々の心の原点になることを目指すべきではなかろうか。
 墓をめぐるさまざまな問題は、実は習俗、慣習の問題であって、仏教の本質的な問題ではないことを宗教者は忘れるべきではない。この論を突き詰めれば論理としては寺に墓は不要とする結論になるかもしれない。合祀墓を「とりあえずの理想」としたのもここにある。

■合祀墓の可能性

 これまでの寺の墓を廃して、一か寺一墓の合祀墓とすることがすぐには現実的な論になり得ないことは十分承知している。この案を直接的に提示すれば、現在の寺のありようからして既存の檀家から猛烈な反発が起こることは必至である。
 しかし少なくとも現状を危惧し、これからの寺と墓のあり方を考えようとするならば、理想的形態を議論の上で作りあげ、折りにふれ明示しながら時間をかけた現実的作戦を実践していかねば道は開けないように思う。そのためにも都市寺院、地方寺院それぞれの状況に見合った形態で可能性を追求していけたらいいと思う。
 
 実はこの合祀墓は割に古くから各地に存在している。日蓮宗系の在家信者団体『国柱会』は、東京江戸川区の本部に一塔合安と称して合祀墓を持ち、信者は仏子として皆ここに埋葬され、会員による合同祭祀が行われている。
 また新潟県糸魚川市押上地区では、二百戸近い地区民全員が家の墓を持たず、『百霊廟』と名付けられた合祀墓に埋葬されるという一村一墓の形態が今でも続いている。大正時代、一人の地区の指導者の発案で、十年を要してそれまでの家の墓を集め、実に三千人分の遺骨を移して合祀墓が始まった。以来現在まで住民にとってはこれが当然のこととして受け継がれ、お盆には盆踊りをはじめ地区を上げての合同供養祭、十年目毎に各宗派合同で盛大な供養祭を催している。この押上地区の多くの人が檀那寺とする寺の住職は、むしろ他の地区の人に比べ信仰熱心に思えると語ってくれた。
 各地にさまざまな合祀墓があり、中には地域社会の解体で運営が困難になっているところ、血縁者のみに限定されているところといった問題もあるが、国柱会の合祀墓、糸魚川市の『百霊廟』に関しては実によく考えて運営され、その姿勢に学ぶべき点は多い。

■安穏廟の実践

 初めに述べたような今日の寺の状況は妙光寺においても他人事ではなく、こうした危惧を背景に安穏廟は企画されたと言ってよい。宗派が同じか、檀家であるか、承継者がいるか等に一切関係なく個人を単位として受け入れられる墓として企画したのである。
 計画当初は、合祀墓の形態を取り、申込者の経済的負担を軽減するつもりだった。しかし、申込者にとって最初からの合祀に対しては抵抗感があるだろうし、寺側にとっても将来の運営上の財政的基盤に不安が残るだろう。また、何よりも既存檀家の意識とかけ離れすぎるのではないか。これらのことが、設計時点で問題として指摘された。
 
 そこで実際に採用したのは、一基あたり一〇八区画の個墓を円墳型の周囲に集めた集合墓とし、時間の経過とともに中央に合祀していく形態である。個墓も個人墓として使用するほか、夫婦、兄弟姉妹、家族、グループによる共同使用といった、幅の広い自由な利用・承継を認めた。中には最初から個墓不要、合祀でいいという申込者もいる。
 これまでの家の墓を媒介とした檀家制度に対し、個人単位による合祀墓ではその主体としての寺の運営が不安定化することは免れない。そこで安穏廟では、工事経費に上乗せした収益に当たる分の全額を基金化し、その運用益で継続的に管理供養することで解決をはかった。基金は宗教法人の基本財産として委員会で管理運用し、大きくなれば寺の運営を助けることになる。これでも一区画当たりの工事代金が軽減する分、単独の建墓より申込者の金銭負担は少なくて済む。
 
 安穏廟は合祀墓を理想に据えながら、状況を加味して現在のような集合墓の形をとった。そのシステムは会員制、基金による運営、永代供養、合同祭祀を基本にして、有期限の個墓の集合形式という現実的な戦略をとるものとなった。将来的には、既存の墓も漸次これに移行していきたいという考えももっている。
 今回、安穏廟を計画するに際しては、寺や墓の将来像も含め、全てを檀家役員二〇名に参画してもらい、一緒に協議しながら理解を得ていくというこれまで通りの寺の運営方式を踏襲した。その結果、檀家役員が全く自発的に工事資金の全額を、それぞれの個人名義で銀行から借り出してくれた。これが後々の円滑な計画の進行を助けるところとなった。主旨の伝達、申込者の受け入れ、合同祭祀への参加、基金運用への理解、と現在に至るまで実にスムーズに進めてくることができた

■寺の再生

 安穏廟では合祀墓をその理想に置くことで、基金による運営と開放性という、新しい寺のありようが現実のものとなってきたように思う。
 安穏廟は、これまでの「家の墓」のように家や家族を単位とする檀家制度とは異なり、個人をその最小単位とすることで、会員制となっている。このことによって血縁による承継を前提としないで、単身者はじめさまざまな家族の変容に対しても、差別することなく対応することができるようになり、開放的な寺の運営に道を拓くところとなった。
 さらに個人を基本単位とすることで、自ずと個人の意思を尊重するところとなり、寺との間にいい意味での宗教的な緊張関係が生じるところとなった。これらによって形骸化した寺の布教活動、宗教的実践が実質的なものに生まれ変わるチャンスとなった。
 またその財源である基金による運用をオープンにし、将来的には寺の運営にも役立てるとしたことで、遺産による寄金の申し出もあい続いた。基金の確実な承継と合同祭祀によって永代供養が継続されることが、血縁意識の希薄化で死後の供養に不安を持つ人々に与える安心感と期待は大きい。
 
 毎夏の「フェスティバル安穏」も今年で四回目を数えた。合同祭祀を単なる死者供養に終わらせないで、会員の生前交流を兼ね、普遍性のあるテーマのシンポジウムや交流パーティーを組み合わせて行う催しである。法要にも地元青年の和太鼓が参加するなど明るいイベント性を持たせた。参加者も会員に限定せず、既存檀家、地区の人たちに開放し、その運営に将来を担う若い人があたるなど、これまでの寺や墓のイメージを大きく変えた。
 こうしたフェスティバルを実施する経費にも基金の運用益があてられる。運用益を墓と寺の維持だけに用いるのではなく、社会性をもたせることで、より多くの賛同者を招くのに貢献している。そのほか会報を定期的に発行し、境内の整備も進んだ。寺への参拝者も急増した。地元はもちろん、全国各地に協力者を多数生むところとなった。このように寺の活性化が目に見えるだけに、人々の寺への認識が明らかに変化しつつある。
 
 そもそも寺とは、人が集い、仏法を学び、修行する場であった。それが長い歴史の中で習俗や慣習でがんじがらめとなって本来の姿を見失ってしまった。このまま寺の形骸化が進めば寺の消滅につながりかねない。
 寺と墓の関係を考えるにあたって、檀家制度を抜きにすることは現実的ではない。しかし墓の問題は墓地の容量の問題でもなければ、寺の経営の問題でもないのである。その掲げる宗教的理想と、寄って立つところの現実と、それに対峙する実践の問題である、といま私は位置づけている。
 
◎安穏廟についての問い合わせ先
   〒953新潟県西蒲原郡巻町角田浜 角田山妙光寺
   電話 0256-77-2025 FAX0256-77-2163

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