今、葬送が大きく変化している。しかし変化しているのはそれだけではない。
介護施設の人に聞くと、入所者の中には家族や関係者がほとんどない人がいる、という。そういう人は少なくないという。 親しい人がいない人もいるし、いてもその人が生活に追われてなかなか来られないというケースもある。また、入所者の認知症が進行し、家族であるとも認知されないし会話も成り立たないので来ることを苦痛に思う人も少なくない。あるいは入所前に関係がすでに壊れてしまっている家族もいる。
「家族」や「関係者」が「来ない」のには、それぞれ理由があるだろう。しかし、入所者が危篤になり知らせても来ない家族、死亡して知らせても「そちらで葬式やってもらえないのですか」と言う家族もいるという。
認知症が進めば「法定後見人」がつくことになる。成年後見制度には自分が判断力がなくなったときに備えての「任意後見」があるが、これを選択する人は少ない。多いのは判断能力を失った人への対処である「法定後見」である。
高齢化が進めば進むほど、「法定後見」となる人は多くなっている。
成年後見は被後見人である高齢者を守るための制度だが、後見人による犯罪も見られるようになった。後見人となった弁護士の横領もあるくらいで、後見人となった家族の犯罪も少なくない。監督人制度もあるにはあるが、あまりに一般的な制度なため、適切な監督が行われる保証はますます少なくなるだろう。
死ぬ前のことに対して充分な世話が保証できないとすれば、死後の葬式、墓を含む事務処理がどれだけきちんと行われるか、まったく保証がない。
弔う人が不在の葬りが増加し、3~5万円こっきりの納骨堂に宅急便で遺骨を送っておしまいというビジネスが儲かるというのはやはりおかしい。社会病理と言えよう。
今の「死体処理」の増加に怒ってのことだろうが、永代供養墓、散骨(自然葬)、樹木葬そして家族葬も、すべて「処理」に含めて難ずる人も増えてきた。
こうした葬送を希望する人の中には「簡単な処理」だと選択した人もいる。しかし、これらをすべて「処理」「処分」と見るのは、あまりに実情を知らない粗雑な意見だ。こういう発言が学者、宗教者から出ることが多くなったのはいただけない。
大きな祭壇、多数の僧侶、多数の会葬者を集めた葬儀でも、冷え冷えとした空気しか感じられない葬式があるし、由緒ある寺に大きな墓を建てようが墓参りをする人がほとんどいない墓もある。
多様化というのは外形でことを判断できないことも示している。
また、死にゆく人の看取りも葬儀も体験することが少なくなって危惧することがある。人が死ぬということを皮膚感覚で知らないと、家族の死者の葬りも作業感覚で終えてしまうこともある。それはその人にとって不幸である。人の死は常に重大事なはずなのにそうではなくなるのは、どこかで何かがおかしくなっていることの徴のように見えるのだが。