葬儀Q&A

Q46 葬式をしないのは?

 

Q.私は子どもに迷惑をかけたくないので、自分の葬式はしないでいいと遺言しようかと思っているのですが、非常識ではないでしょうか?(65歳女性)

A いわゆる葬式をしないケース(火葬だけするので直葬と言われています)は、最近増える傾向にあります。東京23区では15%から20%程度あると推定されていますから、最先端の流行のようなものです。全国にもこの動きは少しずつ波及しそうです。
 でも私は、この流れを苦々しく思っている一人です。何か人間のいのちが軽々しく取り扱われているような気がするのです。

 一人のいのちがこの世に誕生し、さまざまな紆余曲折はあったにせよ生きてきたということは尊いことだと思うのです。どんな人生だったから、とか、社会的立場がどうであったか、ということに関係なく、一つひとつのいのちが尊いものだと思うのです。
 そのいのちが人生を終えたとき、そのいのちが尊いものであることを承認し、弔う、というのは、いわば人間の本能のようなものだと思うのです。
 この弔いを放棄するというのは、不自然というか、人間のいのちに対してもっている自然な感情を否定する行為であるように思うのです。
 何も葬式を大きなものにする必要はないのです。集まる人が少なくともいいのです。弔いという行為が大切なのです。

 お子様に迷惑をかけたくない、とおっしゃいますが、葬式というのは家族の義務ではなく、権利なのです。その権利を奪うことは本人にもできないと思います。  尊厳死等の死の自己決定権はもとより、死後の自己決定権も、遺言、埋葬されたい場所など各点で認められる傾向にあります。しかしそれには制限があるのです。法律的には公共の福祉に反しなければいい、ということですが、私の考える制限はもう一つあります。それは「家族に対する真の愛情」です。「本人が葬式しなくていい、というのだから文句ないだろう」とおっしゃるかもしれませんが、それがあるのです。

 死というのは本人だけに起きるものではないのです。家族もまた死を体験するのです。家族は死別による悲嘆(グリーフ)を体験します。遺族となった家族は、その死の事実を確認し、悲しみ弔う自らのグリーフワークのためにも葬式を営むのです。
 葬式をしないということは、家族に死の事実を曖昧にさせ、悲しむことを抑圧することになりかねません。
 弔いというのは、死者本人のために行われ、そのいのちが尊いものであり、その有形無形の財産(人間関係とか愛情とか、いろいろたくさんあります)を引き継いでいく、そして悲しみの中にも送り出す作業です。

 人間であるかぎり、誰でも、たとえ家族がいなくとも、弔われる権利がありますし、同様に、遺された家族には弔う権利があるのです。
 2000年以降、葬式がひじょうに変化してきました。このまま変化したら、あと5年後には葬式の風景は一変しかねないほどです。
 この変化の中には好ましい変化もありますし、反対に好ましくないものもあります。

 好ましい変化という点では、葬式や埋葬が、世間体や家(イエ)中心だったのが、もっと死者本人中心に営まれるようになったことです。形式ばったことが幅をきかせていたのが、死者との別れを大事にするようになったことです。
 そうしたいい変化もあるのですが、反面、人間味が乏しい、死体処理としてしか見えない、あまりにドライな葬式が増えた点は心配です。
 近年「家族葬」が人気ですが、家族葬にも、「いい家族葬」と「悪い家族葬」があるように見受けられます。
「いい家族葬」とは、世間体重視ではなく、本人をよく知る、愛する人たちが集まって、丁寧に死者とお別れして、送ってあげようとする愛情に満ちた家族葬です。  他方、「悪い家族葬」とは、死者本人の生前の人間関係を家族が無理やり遮断して、閉ざされた家族だけで、単に安く、簡単に葬儀をして済まそうという動きです。

 葬式というのは、伝統や慣習もありますし、それはそれで尊重されるべきですが、本来は、人の死を弔うという単純な行為です。極めて人間的な、人間味のある行為です。これは迷惑とか負担という次元とは異なります。虚飾は廃するべきですが、こうした愛情をもっていのちの尊厳を守るという原点は大切にしたいものです。

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