葬儀Q&A

Q75 葬儀って必要なの?

 

Q.先日、中学生の孫に「お葬式って必要なの?」と訊かれて、思わずドキッとしてしまいました。私自身が答えられない問いでした。(78歳男性)

A  ドキッとする問いですね。1951~65年に、北イラクで4万年以上前のネアンデルタール人のシャニダール遺跡が発掘されました。墓地の人骨の周辺から花粉が発見された話は人々を驚かせました。フランスの歴史学者フィリップ・アリエス(1914~84)が『死の文化史』でこのことを紹介しています。私もこの話に強く惹きつけられた一人です。

 当時この花粉は、「現代人の祖」であるネアンデルタール人が死者を埋葬する際に花を供えていたことを示すと推定され、受け止められました。
 アリエスはこの発見に触発され、有名な次の言葉を冒頭に書いています。

 かねてより信じられてきたように、人間はみずから死にゆくことを知っている唯一の動物だ、ということは、じつは確実ではありません。そのかわりたしかなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです。

 実は今、考古学の発見はもの凄い勢いで進んでいます。ネアンデルタール人はヒト属の一種ですが、今ではDNAの解析により、現代人の祖ではないとされていますから、現代人が昔から死者を弔っていたかどうかは不明です。しかし、私はアリエスのこの文章に出遭ったときに、戦慄したことを思い出します。

 私自身の体験では、阪神・淡路大震災直後の神戸で見た光景が忘れられません。そのことを次のように書きました。

1995年の1月17日、阪神・淡路大震災が起こり、死者6千人以上、負傷者4万人以上の大災害をもたらした。数日後に現地に入ったが、焼け野原状態の長田地区に、ポツンポツンと小さな板切れに牛乳瓶の花一輪と水が入ったペットボトルが置かれていた。家族が家族の亡くなった場所に置いたのであろう。その祭壇が美しく、切なく見えた。(『「お葬式」はなぜするの?』講談社+α文庫)

 私が訪れたとき、震災後間もなくであったため、水道もまだ止まっていて、訪れた長田地区は焼け野原状態でした。戦争を知らない私は、戦災というものはこういう光景を言うのだろうか、と思いました。
 その焼け跡にいくつもの、その「祭壇」が置かれていたのです。
 それを見て確信しました。「葬儀が必要かどうかを論じるのは暇人のすることではないのか。葬儀は、せざるを得ないと遺族の心をせきたてるものではないのか」と。

 当時報道されたテレビで、神戸では充分な治療ができないから、大阪等の病院に行くよう医師から勧められた中年男性の対応にも身が震える想いをしました。
 転院の勧めを断固として断り「私にはしなければならないことがある」と言ったのです。その男性は震災でご家族を亡くされていたのです。葬りもせずに自分だけがここから出て行けない、と言っていたのです。
 人間の生命は、個体としては他の生物同様に、かぎりがあります。そのことは頭では早くから認識できます。でもそれだけでは死を「知っている」とは言えません。残念ながら、頭で認識するようには、感性では「死とはどういうものか」をわかることはできません。ですからお孫さんが発した質問はある意味で賢いと思うのです。「死」を頭で理解するだけでせず、問いとして表現しているからです。

 最近の「死についての教育」では、「人の死」を理解させる一助として「ペットの死」が教材とされることが多いようです。それが「極めて近い」ですし、そこには、死の体験で起こる感情を何とか感じてほしい、とする教師の熱心さが見てとれます。
 でも、「人の死」というのは普遍的に理解しようとしても難しいことが多すぎます。個別の人の固有の死があるのですから。身近な人が死に、お葬式をすることで、少しずつ私たちの死生観が形づけられていくのでしょう。

 最近、とみに憂えるのは「近親者の死すら」充分には体験できないお葬式が多くなったことです。子どもや若者の感性は驚くほど豊かです。しかし、「大人」が子や若者から死を体験する機会を奪っているように思うのです。

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