葬儀Q&A

Q111 清め塩は仏教の教え?

 

Q.仏教のお通夜やお葬式の時に配られるお塩ですが、あれはどういう意味をもつのでしょうか。仏教的にどんな意味があるのでしょうか。(65歳男性)

A仏教でも浄土真宗のお葬式では使用しません。「清め塩」を使うべき、と言っている宗派はないように思います。「清め」というのは穢れから身を清めるという日本人の観念からきています。仏教とは関係のない習俗です。

 穢れの一つに死があり、この死に接したものは何らかの形で清められなければいけないという観念は、古く中世からありました。
「清め」には身を海水に浸す=塩をかける、水で洗う=手水などがありました。そこで死者を弔問したり、火葬場に行った者は死の穢れに触れたので清められる必要がある、ということで出てきたのが「清め塩」です。

 もっとも今日のような葬儀の会葬礼状に挟む形式は1970年代に葬祭業者が顧客サービスの一つとして開始したものです。
 そもそも仏教では死を穢れとはしないので清め塩は不要なはずですが、日本人の死に対する恐怖感が生んだ習俗です。
 死者の家族の服喪(喪に服して日常生活から一定程度遠ざかること)、葬儀、特に火葬に参列した者は家に戻ると、玄関先で塩を身体に振りかけ、清めるという習慣、納棺、遺体の洗浄、土葬、火葬に従事した者は死の穢れに対抗するため、酒食を振る舞った習俗に現れています。

 葬儀帰りに家に入る前に塩を振りかけた慣習は、穢れを清めるには水で洗う、海水に浸るという古代の慣習から生まれたものです。塩をかける動作は両肩、両足、背中にかけますが、これは全身を海水に浸すことの代用として行われたものです。
 この習俗を1970年代に愛知県の葬儀社、互助会が返礼品業者と組んで、塩袋を会葬者に渡すサービスとして始めました。当時は食塩は専売公社の時代であったため、食塩ではない類似品(非食用)として開発され、これが急速に全国に普及しました。

 当時すでに公衆衛生的見地からは清め塩の無意味なことは明らかになっていましたが、一般市民の死に対する漠然とした恐怖感を利用して商業化したもので、これは戦後の葬祭業者のもたらした誤った観念の助長という汚点として記憶されなければなりません。現在では葬祭業者が清め塩を添付しないと非難する市民も少なくなく、習俗の普及のおそろしさを示しています。

 死を穢れと見るようになったのは、昔「疫病」と言われた感染症に対する恐怖の気持ちからきた観念だろうと思われます。
 現在もアフリカで、エボラ出血熱という第一級の感染症が流行しており、国連、WHO(世界保健機関)でも真剣な議論がなされています。アフリカの死者の葬りで親しい人々が死者を抱いてお別れする習慣が感染を拡大したと言われます。エボラ出血熱の患者は大量の出血をするので、血液や体液を通して感染すると言われています。

 奈良時代には天然痘と思われる当時疫病と言われた感染症で大量の死者が出ました。当時大きな政治的勢力であった藤原4兄弟も感染して死んだと言われます。平安時代にも鎌倉時代にも戦国時代にも江戸時代にも疫病が発生して多数の死者が出ました。近代に入り明治時代にも2度にわたりコレラが大流行し、日本だけで約15万人の人が死亡しました。
 塩や水というのは古い昔の感染防御策であったのでしょう。しかし、今はそうではありません。今は、習慣としてのみ残っているものです。

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