葬儀Q&A

Q114 僧侶を呼ばない葬式なんてあっていいのか?

 

Q.地方の僧侶です。檀家のAさんが亡くなったと聞いたので、お宅に電話したら、奥さんが「息子たちが『坊さんなんて呼んだら金をとられるだけだから』と反対しています」と申し訳なさそうに言っていました。寺を呼ばない葬式なんてできるのですか。(58歳男性)

A ついに地方にまできたか、という感じですね。20年前にシンポジウムの席上で大阪のお坊さんに叱られたことを思い出しました。
「あんたたち東京発無宗教知識人が言ったせいで、東京とは事情が違う関西人はえらい苦労をしている」と言うのです。しかし数年後にお会いした時には、「いやあ、大阪にもきましたわ」と嘆息していました。

 先日新聞記者と飲んでいたら、こう言われました。「今の時代、もう葬式に僧侶は不要ではないですか。葬儀社がいるし、納骨にしても墓石屋が熱心にやってくれるし」
 私は彼に、「ビジネスとしてしている人間に宗教者の代わりはできない。できる、と事業者が言っているのだったら思い上がりだ。確かに遺族のほうに、宗教者に送ってもらわないとあの世である浄土へ行けない、または成仏でない、という気持ちが薄れていることは事実だ。そうであるから現実には僧侶を呼んでも呼ばなくとも葬式の実質は変わらないだろう」と回答しました。

 そうは言っても現実の葬儀では仏教形式で行われているのが約9割。東京でも7割以上がそうです。
 どうしてこうなったかには歴史があります。室町時代の後期ですから400年以上の昔。僧侶、しかもあまり偉くない、身分の低い僧侶たち(「聖」とも呼ばれました)が、飢饉等で苦しい民衆の中に入って行き、一人前の人間として扱われていなかった民衆の葬式や打ち捨てられていた民衆の死者たちの火葬を行いました。

 私は「民衆の人格を認めた」と評価しています。民衆一人ひとりのいのちも弔われて葬られる価値があるいのちであると戦国仏教が認めたことで、民衆は僧侶を歓迎し、民衆の寄進で寺がつくられていきました。

 日蓮宗では「日蓮聖人が迎えに来られて霊山浄土に連れて行ってくださる」、と言い、浄土宗では「もともとのいのちの本源である極楽に往生できる」と言い、曹洞宗では「仏弟子としてきちんと成仏させる」と言い、その他仏教では宗派によって言いようは異なりますが、民衆一人ひとりのいのちを、責任をもってあの世に届ける、というメッセージを伝えたのです。
 僧侶たちの「いのちを預かる」という熱い想いが民衆の心を打ったのです。
 その後、江戸中期には寺檀制度が確立し、人々はどこかの寺に属すことが法制度的に定められましたが、死者に対する葬りで信頼を得た寺を江戸幕府が支配に利用した話です。

 戦後憲法で「信教の自由」は基本的人権の一つと位置づけられています。「檀家だから寺で葬式をあげるべきだ」というのは寺の願望にすぎません。むしろ反省すべきは「檀信徒の『生き死に』に寺は責任をもって係わってきたか」ということです。これによる檀信徒の寺への信頼があれば自ずと檀信徒から葬式が依頼されるはずです。

 だが、一時の流行で「無宗教葬」を選択する、あるいはそれを葬祭業者が勧めるというのはいかがなものでしょうか。都会で見られる派遣僧侶の横行は「仏教葬儀の無意味化」を推進するだけのものです。「安く僧侶を手配」なんて寝言を言うネット葬祭事業者は「無責任」以外の何ものでもありません。

 死は人にとって一大事なのです。人が死に、弔われる場所が葬式なのです。弔う者の弔う心抜きに葬式はありません。死者を放っておいて行われる儀礼は葬式ではないからです。そこにはイベントがあるだけです。単なるイベントならしなくてもいいでしょう。
 葬式は、家族や本人をよく知る人たちが死者に向き合い、宗教者も死者に向き合って初めて成り立つ空間です。
 あなたの寺の檀信徒であるならば、まず行って弔いのお経をあげさせてもらい、遺族の心の内に耳を傾け、「私としても檀信徒さんの弔いに責任があります。よろしかったら葬式をあげさせていただきます」とおっしゃったらいかがでしょうか。まず住職であるあなたに檀信徒の死を悼む気持ちがあるか、それが問題です。

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