新門随想

(44)陸前高田の一本松

 

 東日本を襲った大震災の後、陸前高の被災地に奇跡的に残った一本松がマスコミに取り上げられ、全国の多くの人が知ることとなった。その松を保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断された。
 その後に震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり、枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業に巨額の金をかけて復元して、元の場所に再び立てられている。新井満は「希望の木」という詩集を出し、マスコミでは「復興のシンボル」として盛んに宣伝されている。

 こうした現象に違和感を覚えるのは私だけだろうか? 七万本もあった松の死に想いを寄せることなく、たまたま姿形が残った一本の松に、なぜあんなに騒いでいるのだろうと思ってしまう。それも危篤状態であったわけで、人間や動物で例えれば、助からないとわかると、ミイラにしたりはく製にしたりして、モニュメントにして顕彰しているような行為に思われてならない。

 私がこんな思いに駆られるのは、あの大災害があった翌年、被災地を訪れた時、なぎ倒された木々や瓦礫の間に可憐な花をつけた雑草を見たからであった。このような一年草の雑草のほんとうの〈いのち〉の偉大さを取り上げないで、たまたま物理的要因で松の姿で残った一本松を、しかも「復興のシンボル」などと称して喝采を送るのはいかがなものだろうかと思うからである。
 自然と戦い自然を征服することが人間に与えられた特権とする近代西欧思想に裏打ちされた経済優先の価値観を鼓舞する行為に思えてならない。

 とかく真理のように思われる思想でも、その時代の価値観に色濃く染まっているものである。たとえば戦時中のわが国で、死んでもラッパを離さなかった兵士のことが戦意を鼓舞するために大きく宣伝され、小学校の教科書にまで載っていた時代があった。ラッパ手がラッパを吹いていた時、弾が当たればラッパを握っているのは当然で、その兵士はラッパを握っていようと思ったわけでなく、死体が硬直すればラッパは手から離れなかったのである。このことは硬直した死体を扱ってきた私の納棺夫としての体験から言うのであるが、いつの時代にあっても、時代の主流をなす思想を推進する側の人間によって、都合の良い事例があれば美化して誇大宣伝するのは世の常である。

 私は災害やそれに伴う死に抵抗した一本松より、ひっそりと瓦礫の中に〈いのち〉を受け繋ぐ名もない雑草にこそ真実の〈いのち〉を見る思いがする。
 地球を覆う氷河期に巨大爬虫類が滅び、哺乳類が生き残ったのは小さな哺乳類のほうが生と死の回転が速かったからだという学者の説もある。風邪のウイルスが人間の作る薬とイタチゴッコをして生き残るのも、ウイルスの生と死の回転が速く、環境変化に対応できる新しいウイルスが生まれるからだという説もある。

 しかしその生は多くの仲間の死の犠牲の上に成り立っている。死を受容した七万本の松を思い遣ることなく、死に抵抗した一本の松に喝采をする思想には、「お蔭様」という想いが欠落している。そしてそれは今日のわが国において、仏教の説く無常観が希薄になっていることを物語っている。

「この世のあらゆる姿形あるものは滅びるものである」と説いたのがブッダであった。その言葉を中国では「諸行無常」と漢訳してわが国に伝わった。それをわが国では「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ」と大地に根付かせて『源氏物語』や『平家物語』を生んできた。良寛は「散る桜残る桜も散る桜」と歌っている。

 そうした無常観を前提に「有為の奥山今日越えて」と、連続無窮に続く永遠の〈いのち〉を説いたのが仏教であった。
 今日でも葬式の八割近くが仏教葬で行われているわが国の現状の中で、目に見えなくなった七万本の松に「お蔭様」と感謝の心を添えることなく、目に見える形で残った一本松を復興のシンボルなどと讃えているかぎり、仏教葬の形骸化にはますます拍車がかかることになるだろう。

『SOGI』147号 青木新門

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