過去に一度講演に行ったことがある真宗寺院の住職からお手紙をいただいた。その内容は「檀家の者と葬式について話し合っていたら、葬儀費用が高いという話に始終しました。現在のお棺や骨壺など葬具の値段がわかれば教えてほしい」という趣旨であった。私は返信する気持ちになれなかった。しかしお世話になったのだからと次のような返信をした。
〈ご住職の門信徒の方を思い遣る気持ちはよくわかりますが、お棺の値段一つとっても葬儀業者によって違いますし、製造元から仕入れる価格は三千~五千円でしょうが、それに布団や枕や棺覆いや手甲脚絆や杖や草鞋などを付加して値付けする業者もありましょうし、客に届く価格はまちまちです。また彫刻彫りなどのお棺は一〇万ほどのものもあります。ちなみに土葬のアメリカや中国ではお棺に金をかけ、三〇万~一〇〇万円のものが用いられることもあります。またインドなどではお棺は用いないで遺体を晒で巻いただけで荼毘(火葬)に付します。イスラム圏では火葬はせず土葬ですが、お棺も用いないで布に巻いて埋葬していたようですが、最近では殺されたことをアピールする葬送デモなどではお棺を担いでいるのを見かけるようになりました。要するに風土や風習や文化や宗教で遺体処理もいろいろあるということです。とにかく、そちらの風習や業者の扱い品目の価格を知りませんので、高いのか安いのか、何が無駄なのか返答のしようがありません。
それよりも仏教僧であるご住職が葬式のあり方について深入りするのはいかがなものでしょうか? そのことのほうが気になります。
お釈迦様は「葬送のあり方などは在家の者に任せよ」とおっしゃっていましたし、親鸞聖人は「われ閉眼すれば賀茂川へ入れて魚に与えよ」と言い残しておられました。
私が危惧するのは、仏教そのものが見えない葬式が多くなってしまっていることです。ご本尊中心の祭壇が故人の遺影中心の祭壇となり、死者と語り合うお通夜が告別式のようになっています。昔は、葬儀は村落共同体の一大祭事でした。それが経済の高度成長とともに会社共同体の葬儀となり、やがて核家族化から断絶社会・無縁社会と言われるようになると、個人の葬儀となり、家族葬(家族のみでの密葬だけで済まし、本葬をしない)や直葬(葬式をしないで直接火葬するだけ)などという言葉が現れました。大都会などでは家族葬と直葬が全体の四割にもなっています。
このことは会葬者の激減を意味しています。家族葬であれば、大きな会場は要りませんし、会場が小さければ大きな祭壇も要りません。会葬者への会食や引き出物も不要となります。それは葬儀業者にとって売り上げの減少を意味しています。バブル経済時代の豪華な葬式は敬遠され、会葬者の減少とともに、葬式一件の売上単価は激減したと言われています。葬式会館や社員を抱えて、それを維持するため葬儀価格を上げたりする愚かな業者もいますが、それは自由消費経済の中で淘汰されやがて消えてゆくことでしょう。
こうした娑婆世界での現象に関しては、お釈迦様が言われたように、「在家の者に任せておけばよい」のです。ご住職はこんな葬儀のあり方や葬式費用などに関わらないで門信徒に仏法、すなわち生・老・病・死の全過程を安心して生きる道を説くことに専念されたらほうがよろしいのではないでしょうか。
既存仏教界が行う葬式作法は、成仏や往生を前提にした作法で行われているのに、会葬者は成仏も往生も、来世も浄土も信じないで、故人の生前の思い出やこの世で何をしたかに始終しているのが現状です。仏教葬で行われているのに、その実態は遺影中心の「偲ぶ会」「お別れ会」になっているのです。この乖離現象こそが、仏教離れを象徴しているのではないでしょうか? こうした実情を憂えることなく、葬式費用がどうのこうのと関われば関わるほど、それでなくとも葬式坊主と思っている世間の人に、やはりそうだったのかとご住職の善意も誤解されかねません。小生がご住職のお問い合わせに素直にお答えしないで、こんな僭越なことを申し上げますのは、仏教界の現状を憂うからにほかなりません。ご容赦くださいませ。〉
この文のままの返信をポストに投函してしまってから、失礼なことを書き過ぎたと後悔したが、後の祭りだった。
『SOGI』146号 青木新門