新門随想

(42)インドの旅

 

 インドを旅してきた。インドの旅は五度目である。インドも近代化が進んでいる。二十年前とは見違えるようになっている。空港やニューデリーなどには物乞いも牛の姿も見当たらなくなっている。人と人力車と牛しか見られなかった道路はきれいに舗装され、自動車で溢れている。しかし、インドは巨大である。農村地帯へ行くと様相は一変する。ヴァラナシー(ベナレス)などは二千五百年前と変わっていないのではないかと思わせる光景が今も残っている。

 旅は必ず何かを学ばせてくれる。今回の旅も私に貴重な体験を与えてくれた。ヴァラナシーのホテルのレストランで会食をしていた時のことであった。バイキングの料理を取りに行くと、前に一人の日本人女性がいた。その人に声をかけたら一人旅だという。ご一緒に食べませんかと誘ったら皿を持ってやってきた。

「なぜ一人でインドの旅を?」と尋ねると、突然スマートフォンを取りだし、男性の写真を見せて、十月に夫が四十五歳で亡くなって、船橋のお寺に墓を建て納骨したが、悲しみから立ち直れないので、寺の住職に旅に出ることを相談したら「インドの旅」を薦められたという。

 私は、スマートフォンの笑顔の写真を見ながら「あなたのご主人はあなたに感謝していますよ」と言った。そして、東北大震災の翌年南相馬を訪れ、被災者の前で私が講演したことを話した。その時宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩を取り上げて話したことを言った。その詩の中に「あなた方の方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが/わたくしから見えるのは/やっぱりきれいな青ぞらと/すきとおった風ばかりです。」という詩句がある。「瓦礫を見ているのは生き残った人たちです。死者はきれいな青空とすきとおった風しか見ていません。あの大震災では幼い少年や少女も、新婚間もない人も、あなたの夫の年代の人も亡くなっています。それら死者たちは、その死の瞬間にすきとおった風の中にいて人生の全てを振り返りながら、世話になった人や愛する人を思い出し、『ありがとう』とにっこり微笑んで亡くなっているのです。あなたのご主人もあなたへの感謝の気持ちできれいな青空とすきとおった風の中におられます」と言った。

 すると彼女はぽろぽろと涙を流しながら「インドへ来てよかった。インドへ来てこんなお話を聞けて、来た甲斐がありました」と言って手を出された。私はその手を握って、この人は悲しみから立ち直って生きていけるだろうと思った。
     *
 私は旅を続けながら、この一瞬の出遇いのことを考えていた。機をみて法を説くという言葉がある。機が熟さないと法は伝わらない。本木雅弘君が二十年前、ここヴァラナシーへやってきて、ここでは生と死が当たり前のように繋がっているとカルチャーショックを受けたとき、たまたま私の『納棺夫日記』に出遇ったから、映画「おくりびと」が誕生したのであった。

 機が熟さないのに何を言っても伝わらないことが多い。たとえば、子供を亡くした母親が嘆き悲しんでいるとき、ブッダが説いた逸話がある。
 子供を亡くしたゴータミーという女性が、わが子を亡くした事実を受け入ることができず、半狂乱のまま、屍と化したわが子を抱きかかえ、子供を治せる人はいないか、薬はないかと捜し求めて放浪し、ついにブッダのところまでたどり着く。ブッダは彼女に言う。「いまだかつて一度も親類縁者の内で死者が出たことのない家庭から辛子種をもらってきなさい。それによって子供を治してあげましょう」と。しかし、もちろん、そのような家庭が存在するはずもなく、家から家へと訪問するうちに彼女は、「死は誰においても不可避的なものである」ということを悟り、正気を取り戻す。そして仏陀の深い心遣いと教えに感謝しつつ、わが子の死をしっかりと受け止め、葬送することができたという話。

 この逸話で重要なことは、彼女(ゴータミー)の行動である。実際に半狂乱のまま辛子種を探し求めて歩いた行動である。先の夫を亡くした女性も大きな悲しみを背負ってインドまでやってきた行動が私との不思議な出遇いを招いたと言えるだろう。彼女は私に出遇ったことが「インドへ来た甲斐があった」と言ったが、私も彼女に出遇えたことがこのたびのインドの旅での貴重な体験であった。

『SOGI』145号 青木新門

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