新門随想

(41)臨床宗教師

 

 臨床宗教師という聞きなれない用語が最近見られるようになった。
 二○一一年三月十一日に発生した東日本大震災以降、日本中のさまざまな医療関係者や宗教者・宗教団体が積極的に被災者支援の活動を行うなかで、生まれた用語である。簡潔に言うなら、死期が迫った患者や遺族に対して、宗教や宗派にかかわらず、また布教伝道をすることもなく、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う宗教者のこと言う。

 その目的は、死への不安、生きる意味の喪失感や罪責感、愛する人を失った悲嘆など、それぞれの心の苦しみや痛みを理解し、和らげるための支援を行うこととし、その人材育成の動きが始まっている。欧米では臨床にかかわる宗教者として、教会や寺院などには属さず、病院や軍隊など人の生死に関係する場所で患者や遺族の心のケアに携わるチャプレン(chaplain)という人たちが活動している。臨床宗教師はこのチャプレンの日本版を目指しているようである。

 国内での専門家育成の動きの発端となったのは、東北大学大学院で、広い宗教性に基づきつつ超宗教的な立場から人々の「心のケア」を実践する宗教者「臨床宗教師」を養成する教育プログラム「実践宗教学寄附講座」を二○一二年四月に開設したことによる。それにならって二○一四年に龍谷大学大学院において「臨床宗教師研修」を開設したことなどから「臨床宗教師」なる用語が用いられるようになった。

「臨床宗教師」という用語はまだ一般には知られていない。しかし関係者が資格制度の創設を目指しているようだが、臨床宗教師というあり方が社会に受け入れられれば、一般的に用語として定着するかもしれない。ちなみに、「納棺夫」という言葉は、私が勝手に名づけた造語だが、映画「おくりびと」によって「納棺師」という用語がいつのまにか社会に定着してしまっている。
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 それにしても私は、今日まで宗教家は何をしていたのだろうと言いたくなる。
 死に直面して恐れおののく人への対応をないがしろにして、死後に戒名や法名を与える没後作法などに力を注ぎ、葬式や法事に重点を置いて本来の使命を忘れていたのではないだろうかと思ってしまう。

 仏教は、生・老・病・死の全過程を安心して生きる道を説く教えのはずであった。であるなら、すべての仏教僧は、常に臨床宗教師であるべきではないだろうか。
 宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」は、仏教僧のあるべき姿を歌った詩でもある。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 ・・・(中略)・・・
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
 北ニケンカヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイフモノニ ワタシハナリタイ

 賢治は『法華経』に登場する常不軽菩薩のような菩薩になりたかったのである。なれなかったが、死に直面して恐れおののく人に、「コワガラナクテモイイ」と言える臨床宗教師になりたいと思っていたのである。

『SOGI』144号 青木新門

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