新門随想

(40)渡り廊下のある風景

 一度訪れたいと思っていた比叡山横川へ行って巡拝してきた。延暦寺は過去に二度訪れたことがあったが、横川へは立ち寄る機会がなかった。横川は、我が国の浄土門発祥の地といってもいい。源信、法然、親鸞等の修行の場であった。

 今年一一五〇年遠忌を迎える慈覚大師円仁が開いたとされる横川は延暦寺のある東塔から北へ何キロも離れたところにある。天台宗出版部の手配の宗務庁の車で案内してもらった。

 車で一五分ほど走ると、観光客もほとんど見かけない静寂な杉木立の中に恵心堂がひっそりと佇んでいた。私は源氏物語に「横川の僧都」として登場する恵心僧都源信のことを想い浮かべていた。

 源信は一五歳で村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれている。ある日天皇の前で講義をし、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を奈良で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返してきた。

  後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき
  まことの求道者となり給へ

 この歌の真意は、私が安心して死ねるように後の世を渡す橋になってほしいとあなたを比叡山へ送ったのに、この娑婆をうまく渡る僧に成り下がったのか、お母さんは悲しい、と言っているのである。すごい母親もいたものである。この諫言に従って源信は、名利の道を捨てて、横川にある恵心院に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んで『往生要集』を著したのであった。

 私はこの逸話を思い出しながら静寂な林道を歩いていた。ふと「親鸞聖人修行の跡」と書かれた角柱に気づいた。その向こうに念仏常行堂と法華堂があって「修行中ですのでお静かにお願いいたします」という看板が立っていた。

 親鸞はこの念仏常行堂で一〇年以上も堂僧として不断念仏の修行をしていたのであった。私は感慨深い思いで念仏堂を見やっているうちに、念仏道と法華堂の間に渡り廊下があることに気づいた。下界の娑婆世界では、法華行者が念仏行者を非難し、あたかも犬猿の仲のような様相を呈しているのに、渡り廊下がある! なんだかうれしくなった。

 私はこの渡り廊下に仏教のすべてを取り込んで体系化しようとした最澄の意図を見る思いがした。最澄は法華経を基盤とした禅や念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していた。空海に拒絶されても、密教を取り入れることを諦めなかった。最澄亡き後も、円仁などの弟子たちによって最澄の意志は引き継がれ、密教を学び直して、最澄の悲願であった天台教学を中心にした総合仏教の確立を目指してきたのであった。
     *
 今回の横川巡拝は、私の比叡山のイメージを大きく変えた。比叡山は懐が深い、要するに仏教総合大学だったのだと気付いた。
 山を開いた最澄は「一隅を照らす、則ち国の宝なり」という言葉を学則として残した。その言葉どおり一隅を照らす国の宝のような高僧、源信や法然や親鸞を生み、日蓮や道元を輩出してきた。

 山の上から下界を俯瞰すれば、法華だ、念仏だ、禅だといがみ合っている。その念仏や法華にも宗派があって、西だ、東だと言ったりしている。世界に目を向ければ、ユダヤ教だ、イスラム教だ、キリスト教だと争っている。そのイスラム教の内部でも、シーア派だとかスンニ派だとかに分かれて、骨肉の争いを繰り返している。愛や慈悲を説きながら、いがみ合うほど愚かなことはない。

 ブッダは説く「真理は一つである。第二の真理なるものは存在しない。そのことを知った人は争うことはない」(中村元訳『ブッダのことば』より)。
 私も真理は一つだと思っている。あらゆる宗教に共通する「いのちの光」を真理だと信じて疑わないからである。
 そんなことを考えながら下山する車の中で目を閉じたら、根本中堂の〈不滅の法灯〉が浮かんだ。すると、最澄が灯した火が千二百年間一度も消されることなく灯されてきたといわれる法灯こそが、一隅を照らす真理の光のように思えるのだった。

『SOGI』143号 青木新門

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