新門随想

(39)恐山

 

先日、ひょんなきっかけで恐山(おそれざん、おそれやま)へ行ってきた。二十歳代に詩を書いていた頃から、恐山というその名前に魅かれ、一度は訪れてみたいと思っていた。しかし本州の北端の下北半島まではなかなか行く機会がなかった。

 恐山というが、そんな名称の単独山があるわけではない。カルデラ湖である宇曽利湖を中心とした八つの外輪山(釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山)の総称である。その名の由来も、アイヌ語の窪地を意味する「ウショロ」から湖の名が宇曽利(うそり)と名付けられているように、「うそりやま」が下北訛りで「おそれやま」と呼ばれるようになったらしい。

 霊場としての恐山は、戦後整備されたものであり、特に昭和五十年代のテレビ番組「あなたの知らない世界」に代表される心霊ブームによって観光スポットとして人気を博したが、戦後の一時は硫黄鉱山の廃墟と化していた。

 しかし、この地が霊場とみなされるようになったのは古い。伝承によれば、八六二年天台宗の僧円仁(慈覚大師)によって開かれたという。円仁は比叡山延暦寺を開いた最澄の高弟として天台宗東北教化の草分けであった。円仁が開山したり再興したと伝わる寺は関東、東北に五百余りとされていて、浅草の浅草寺をはじめ、松島の瑞巌寺や芭蕉の句「しずかさや岩にしみいる蝉の声」で有名な山形の立石寺なども円仁の開基と伝えられている。

 恐山も、円仁の開基であっても違和感はない。「人は死ねばお山さ行ぐ」と信じる下北半島の人々によって地蔵信仰の聖地として一千年以上も受け継がれてきたのであった。
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 私は書物で得た知識を膨らませながら、東北新幹線で恐山へ向かった。
 東京から新幹線で八戸まで約三時間、八戸から特急で下北駅まで約二時間、下北駅からバスで恐山まで約一時間、うまく乗り換えれば七時間くらいで到着する。円仁の時代は徒歩であるから、何十日もかかったことであろう。

 円仁が遣唐使として入唐して書き綴った『入唐求法巡礼行記』によると、山東半島に上陸した円仁は、千二百キロを徒歩で五台山まで五十八日かけて行き、五台山から長安までの約千百キロを五十三日かけて徒歩で旅行している。帰国の時も歩くこと百八日、山東半島の赤山港まで辿り着いている。中国大陸を縦横に歩いた体験をもつ円仁にしてみれば、下北半島までの距離などなんとも思っていなかったに違いない。そんなことを想いながら私は、タクシーで恐山へ向かっていた。

 霊場に近づくとタクシーの中まで硫黄の臭いがたちこめた。霊場入口でタクシーを降りて、眼を見張った。火山岩の小石が積まれた小山と風車のイメージしかなかった私は、立派な山門や圓通寺の建物が立派なのに驚いた。それらを横目で見ながら恐山霊場の象徴的な場所へ歩を進めた。

 火山岩の小石が積まれた間から噴煙が見られ、硫黄の臭いがたちこめている。しかし立山の地獄谷や雲仙のような激しさはない。ところどころに風車が挿してあって、いかにも殺伐とした寂寥を醸し出す風景が広がっている。
 山頂に空・風・火・水・地と刻まれた五輪柱が立っていた。その慈覚大師を偲ぶ供養塔の横に立って見渡すと、空が見え、風車が風のあることを伝え、地下から噴煙が上がり、澄んだ水を湛えた湖が見え、蓮の花弁のような八峰が見える大地が広がっていた。ここは、古代インドで万物を構成するとされた五大要素を一望に見ることができる場所であった。

 天台密教の基礎を作った円仁である。きっとここで三千大千世界、即ち大宇宙を感得して、この地を聖地とみなしたに違いない。伝承にもない私の勝手な想像だが、そう確信して恐山を後にした。

『SOGI』142号 青木新門

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