私がひょんなことから葬儀社に勤めて、納棺専従社員として葬送の現場にいた昭和四十年代の富山県などでは、葬式は村落共同体の行事として行われていた。
村内に死者が出ると、村中の人が駆けつけて、葬儀の準備をしていた。その村の風習を知る長老たちによって、神棚に半紙を張って隠したり、割り箸に半紙を巻いて鋏を入れて四華花を作って枕飾りをしたりと、慌ただしく準備がなされた。四華花は、ブッタが沙羅の林の中で亡くなった時、四本の沙羅双樹が白い花を咲かせブッダに降りそそいだという故事にちなんで、仏教徒であればブッダにあやかって成仏することを願う気持ちが込められた仏教徒にとっては欠かせない葬具であった。
四華花や蝋燭立てなどで枕飾りが整えられると、住職は枕机の前に座って枕経をあげていた。枕経は、江戸時代初期にキリシタン禁制にからむ寺請制度が確立してからは寺の住職の重要な役目でもあった。枕経が終わると、住職を囲んで葬式の段取りをするのが習わしであった。祭壇なども、住職の指示に従って、ご本尊中心に手作りの祭壇が飾られ、遺影写真などはなかった。あったとしても紋付を着た白黒の写真がご本尊の邪魔にならない程度に祭壇の下段に置かれてあった。
それが高度経済成長の進展とともに、いつの間にか白黒の写真がカラーになり、遺影中心の祭壇に変わって、ご本尊などどこにあるのかわからなくなっていった。葬儀費用なども、喪家の負担をできるだけ抑え、香典で賄えるようにするのが会計を担当する者の才覚とされた。
やがて過去の風習を知る古老たちが少なくなり、職業の広域化と共に若い世代は村を離れ、村落共同体が崩れると、会社共同体のような葬式へと様変わりしていった。ちょうどその頃発生した冠婚葬祭互助会などの進出によって、葬送の全てを葬儀業者に丸投げするようになってゆくのである。(この丸投げの風潮は、葬送に限らず、出産や保育や教育などでも現れた社会現象といえるだろう。)
やがて僧侶は枕経をあげに来なくなり、四華花なども見られなくなり、通夜式は会葬者の都合に合わせた告別式のような形態となり、僧侶は葬送儀礼の一コマのスポット出演者のような存在となっていった。
こうした葬送儀礼の変遷で見えてくるのは、仏教葬で行われていながら、仏教によって構築されていた葬送の作法や葬具が無視され、仏教葬の形骸化に拍車をかける現象を生んでいることであった。直葬や家族葬が増大しても、不思議ではない。直葬も家族葬も時代を反映した社会現象である。その変化に住職たちも葬祭業者も戸惑う。
実際、葬儀や法事で寺の生計を維持している住職にとっては、一大事である。直葬は言うに及ばす、家族葬の増大は、直接影響してくるからである。
しかし私は、直葬や家族葬に目くじらを立てる僧侶たちにあえて言いたい。そのことを懸念する前に、四華花が消えたことに心を痛めるべきだと。釈尊を敬愛する心を失っては、即ち三宝を敬う心を失っては、仏教葬を行う意味がなくなるからである。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
平家物語の冒頭にも出てくる有名な文である。この文に見る沙羅双樹は、釈迦涅槃図にも描かれている。クリスチャンであれば十字架にも匹敵する、釈迦入滅を象徴する葬具として四華花は扱われていたものである。
『SOGI』141号 青木新門