先日上京した折に京王線明大前の甲州街道沿いにある和田堀廟所へ出向いた。
私が納棺夫になったとき「親族の恥」と罵った伯母の墓があって、その永代供養料を支払うためであった。私が大学へ入学したとき、母の姉である伯母の永福町の家に下宿していた。しかし六〇年安保の学生運動に夢中になり、伯母から辞めるように言われたとき、こんなブルジョア(上流資本階級)の家におれるかと一年あまりで飛び出してしまった。そのことがやがて経済的困窮を招き、大学を中退する主因となるわけだが、今になって思うと若気の至りであった。
伯母は大手企業の役員をしていた夫に先立たれ、養女の娘にも先立たれ、しばらく一人暮らしをしていたが、亡くなる少し前に突然電話があって「まだそんな仕事をしているの? 親族の恥だわ。すぐ辞めて。必ず辞めるのよ」と言った。その伯母が亡くなり、結局私が葬式を出し、生前伯母が夫のために和田堀廟所に建立した墓に納骨をしたのだった。
後日、不思議な縁で廟所(和田堀別院)の暁天講座へ出講したとき、事務所へ立ち寄り、毎年永代供養料を東京まで支払いに来るのは大変だから振り込みにさせてくれないかと言ったら、「年に一度くらいお墓参りに来て支払ってください」と言われた。なるほどそれもそうだと妙に納得して、毎年来るようにしている。
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和田掘廟所は西本願寺が管理している墓所で、墓地には古い墓の区画と新しい墓の区画がある。古い墓の中には樋口一葉の墓があったりする。その近くに内田家・碧川家と一つの墓石に両家の名が刻まれた墓があって、その墓の横に「赤とんぼの母此処に眠る」と刻まれた碑があるのに気づいた。}
私は三木露風が自ら揮毫した碑を見ながら、播州(兵庫県西部)龍野町にある三木露風記念館を訪れたときに目にした一枚の色紙を思い出していた。色紙には「赤とんぼ/とまっているよ/竿の先」とあって、その下に「この俳句は露風が小学校で国語の時間に作った俳句である」と添え書きがあった。露風があの童謡『赤とんぼ』を作ったのは三二歳のときである。その歌の最終行は「赤とんぼ/とまっているよ/竿の先」で終わっている。私は言い知れぬ感動を覚え、展示された資料を見てゆくうちになるほどと納得した。
三木家は旧家であった。しかし露風が五歳のとき両親は離婚し、父は北海道、母は東京へ出て行き、露風は祖父母の元で育てられる。先の俳句は傷心の少年露風が、学校帰りに揖保川の堤を歩きながらふと目にした一匹の赤とんぼに自分を重ねて作った句だったのである。それは三二歳になっても、赤とんぼを染める夕日とともに彼の生涯を貫く大悲の光となっていたから、少年の日に作った俳句をそのまま歌に引用したのであろう。少年の日に父と母に見捨てられるという同様な境遇で育った私にはその心情がよくわかる。
東京へ出た露風の母かたは当時新進のジャーナリスト碧川企救男と結婚し、女性の社会参加運動に挺身する。二人の間に一男四女が生まれ、三女が映画監督内田吐夢に嫁いでいる。内田監督は義母であるかたと気が合い、生前から「自分が死んだら義母さんと一緒の墓に入りたい」と言っていたという。それが一つの墓石に「内田家・碧川家」と刻むことになったのであろう。その横に「赤とんぼの母の墓」の碑がひっそりと立っている。
自分を捨てていった母を許し、母への追慕が添えられているようで、露風の万感の想いが伝わってくる。
『SOGI』136号 青木新門