新門随想

(32)青丹よし

 

 五月の晴れた日に薬師寺を訪れた。
 私は葬式の現場にあった頃から飛鳥時代に関心があった。特に飛鳥時代後半の薬師寺が建立された白鳳時代(六四五~七一〇)に興味を抱いていた。それは「火葬」や「仏壇」といった葬送儀礼に関わるものが我が国の歴史に初めて登場したのがこの時代であったからだった。

『続日本紀』によると、僧道昭が七二歳で亡くなった際、遺言により我が国で初めて火葬に付されたとある。道昭は遣唐使として唐に渡り、玄奘三蔵から直接教えを受けて帰国した際、当時の仏教を中心とする文物を持ち帰り、天武・持統天皇に伝えている。

 仏教に深く帰依した天武天皇は、『日本書紀』によると「諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像や経巻を置き、礼拝供養せよ」という勅を出したとある。天武天皇の後の世への影響は計り知れない。勅を発して家ごとに仏壇を置くことや殺生戒を守って肉食を禁じたことなどが、仏壇や精進料理などといった風習として今日でも伝承されている。
     *
 私は白鳳時代にタイムスリップしたような気分になって薬師寺の境内を歩いていた。回廊で囲まれた中門をくぐると、正面に薬師三尊が安置されている金堂が見える。中庭の右にある東堂は解体修理中で、工事用テントで覆われていたが、左側には色鮮やかな西塔が見られる。昭和五六年に復元された西塔は、連子窓の青色と、柱の朱色と、壁の白色、相輪の金色が鮮やかで美しい。仏教に出遇った当時の人々は、青色青光、赤色赤光、白色白光、黄色黄光の浄土世界をイメージして極楽浄土に憧れていたに違いない。

  青丹よし奈良の都は咲く花の
  薫ふがごとくいま盛りなり
       ――万葉歌人・小野老朝臣

 青丹よしとは、奈良の枕詞で、まさに青色、赤色(丹)に彩られた塔堂伽藍の光景を歌っている。私は五月の空に映える西塔を見上げながら白鳳時代の人々に想いを寄せていた。
 仏教に三時の説という正法、像法、末法という時代区分がある。正法の時代とは、釈尊入滅後の五百年間で、仏法が正しく伝えられた時代。像法の時代とは、正法後の一千年間をいい、経典や仏像などの方便を用いてなんとか仏法が伝わった時代。その後の末法の時代とは、釈尊の仏法が全く伝わらなくなる時代とされている。白鳳時代は、まさに仏像や塔が盛んに造られた像法の時代であった。

 私は金堂の薬師三尊像を観ているうちに、末法時代の仏教を信じない今日の人々は、国宝とか仏教美術の傑作として仏像を観ているような気がした。仏像を単なる彫刻として観る限り仏教とは無縁の偶像となるだろう。

 しかし白鳳時代の人々は、仏像を観ても素直に浄土を想い描いていたのではないだろうかと思った。本尊の薬師如来は東方瑠璃光浄土にあって、その如来を日光と月光が昼夜照らし続けているという。この如来と日と月の姿や働きを誰にでもわかるように人間の姿で、つまり人格化して表現されているのが薬師三尊像である。

 像法の時代の人たちは、塔堂を見れば「青丹よし」と歌い、薬師如来像を見れば瑠璃光浄土が浮かんだのではないだろうか。
 そんな感慨を抱いて中庭を出ようとした時、佐佐木信綱の石碑に眼が止まった。

 ゆく秋の
 大和の国の薬師寺の
 塔の上なるひとひらの雲

『SOGI』135号 青木新門

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