新門随想

(29)死と唯物思想

 

 今日、唯物論などという言葉を知らない人でも「人は死んだら何もないよ、無だよ」と思っている人が多い。だから無になる死に直面したとき、どのように死を受容するかが問題になってくる。来世の有無や来世での罪と罰の苦悩ではなく、無に帰する死をいかに受けとめるかに苦慮している。このことは唯物論者の死に対する思想で、今日の普遍的な社会現象となって定着している。

 唯物論者の死のとらえ方が普遍的な思想になってしまった現代社会にあって、宗教を拒絶し、告別式やお別れ会、偲ぶ会といった葬送儀礼を生み、葬式無用論まで生んでいる要因はこの唯物思想に基づくと言っていい。

 宗教葬でも「死んだら何もない」と思っている会葬者を前にして、天国や浄土へ送ることを前提に構築された各宗派の作法で宗教葬が執り行われている。私には、立派な袈裟を身に着けた導師の姿が、裸の王様のようにさえ見えてくる。
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 唯物論は、戦後のマルクス・レーニンの思想と共に大いに流行ったが、古代からあった思想で、アテネの哲学者エピクロス(紀元前三四一~二七〇)などは、魂の不死を否定し、死後の世界を否定し、来世の存在を認めない唯物論者であった。しかし、エピクロスの思想はやがて快楽主義と非難されるようになってゆく。なぜなら死後の世界を無としたとき、人は死んだら何もなくなるのなら生きているうちが花だと、欲望と快楽に走るからである。エピクロスの唯物論は現世を謳歌する快楽主義を煽る結果となったのである。

 今日の我が国もまさにこの世を謳歌して快楽主義の社会となっている。人生五十年時代には「お前百までわしゃ九十九まで」と夢物語として謡われていた寿命が現実となって世界一の高齢化社会となった。昭和六二(一九八七)年の厚生白書では、高齢化社会の到来を迎えるにあたって、人生八十年時代の生き方を提案していた。人生五十年という考えを変え、今までの生き方をそのまま三十年延長させる思想で社会全体の構造やシステムを変革しようとするものであった。その結果、医師は延命思想で医療を行い、巷には「いきいき」とか「ゆうゆう」とかいった雑誌が登場し、高齢者の欲望をくすぐるような旅行や食品や趣味嗜好品や散歩の仕方まで消費経済に組み込まれ展開されてきたのであった。
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 最近の世相をみるに、長生きは果たして人々に幸せをもたらしただろうかと思ってしまう。高齢化社会は年金問題や医療費問題や介護問題を抱えることになったのでる。人生の最後まで生き生きと生き続けることを理想とした思想は、飛行機にたとえるなら、着陸態勢のない人生の生き方を求めることになる。水平飛行のまま「このままある日ぽっくり死ねたらいい」というピンコロ思想がまかり通ることになる。

 仏教は水平飛行より着陸態勢に入ってからの生き方を重視する。秋の紅葉が美しいのは気温変化に木々が対応しているからである。冬の木立が美しいのは葉を落とし命を生きる必死の姿だからである。
 晩秋の晴れた日に外へ出て見ると、冠雪の立山が見えた。

 立山が白く光ると
 柿の実がうれしそう
 この後は
 鳥たちに啄ばまれようが
 熟れて落ちようが
 それは死ではなく
 いのちを託した喜びだから
 光顔巍巍とうれしそう

『SOGI』132号 青木新門

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