新門随想

(28)「ありがとう」の墓碑銘

 

 新潟県上越地方の墓石に「墓」と刻銘された墓がみられる。
 親鸞の足跡を訪ねて直江津から高田の地を訪れた時、墓地にある墓の多くが「墓」と記されていた。一見誰が見ても墓だとわかるのにあえて墓と書かなくてもよさそうなものだと思った。浄土真宗の教学者として明治から昭和にかけて活躍した金子大栄師の高田の自坊・最賢寺を訪れると、境内にある金子大栄の墓も「墓」となっていた。

 考えてみると、墓という漢字は草かんむりに日があって、また草があってその下に土がある形象文字である。地平線の草むらに夕日が沈んでゆく美しいイメージが浮かぶ。「葬る」という語源は「ホウル」から来ているというから、古代では草むらに死体を放っていたのかもしれない。そういえば「葬」いう漢字も草と草の間に死がある形象文字である。
 墓碑に何と刻むかは、そこに住む人の思想や時代や宗教の影響が色濃く反映している。
 古代では五輪塔に梵字が見られたが、儒教の家制度が定着すると「何々家の墓」が多くなり、やがて「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか「倶会一処」といった宗教を反映したものとなっている。今日の無宗教の人たちは「希望」とか「悠久」とか「夢」とかいった言葉を当てている。
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 先日、旧知の友人から突然手紙を受け取った。青春時代の飲み仲間で、思想や文学に関して呑みながら論争していた男であった。当時彼はマルキストであった。手紙には総合病院の医師をしていたが昨年定年退職したとあった。

「……君も知ってのとおり、俺は神仏など信じない唯物論者で墓などどうでもいいと思っていたが、妻にせがまれて墓を作ることにした。しかし墓石に何と書けばいいか迷っている。墓石屋で見せられたサンプルは『南無阿弥陀仏』や『南無妙法蓮華経』とかで、最近では『希望』とか『夢』とかいろいろあったが、どうもしっくりしない。何かいい案がないか」という趣旨の手紙であった。

 私は「ありがとう」と書いたらどうかと返事をした。「ありがとうと墓に刻めば、君の奥さんや息子さんがお彼岸などに墓参りに来た時、君が『ありがとう』と言っているようであり、君を慕って来た人もおのずから君に「ありがとう」と手を合わせるのではないか」と付け加えておいた。
 すると後日、墓を作ったから見に来ないかと連絡があったので見に行くと、「ありがとう」と墓碑銘が刻まれていた。
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 私が「ありがとう」に拘るのは、親鸞の仏教は、ありがとう教だと思っているからである。「仏様ありがとう、先に浄土へ往かれた方々ありがとう」といった回向を中心にした報恩感謝の念仏なのである。
 平等院や比叡山などでも南無阿弥陀仏は唱えられていたが、そのほとんどは「お助けください」「浄土へ導いてください」といった合格祈願や家内安全祈願にも似た祈願的要素が強かった。

 この違いはどこから来るのかと言えば、浄土側に立って見ているか、此岸にあって彼岸を見ているかの違いだが、親鸞以前の南無阿弥陀仏は、南無に徹しきれない我執にとらわれた人間が弥陀仏を仏像のように対象化して祈願しているにすぎないのに対して、親鸞の南無阿弥陀仏は如来に出遇えた喜びから発せられているのである。そうした意味で私は、親鸞が到達した仏教は大乗仏教の真髄でもあり、まさに「ありがとう教」だと思っているのである。

 まあ、そんな理屈はどうでもいい。孫たちにはわからない。孫たちが墓碑に刻まれた「ありがとう」という言葉を見れば、墓参りに来てくれた時「ありがとう」と墓が言っているようでもあり、「じいちゃんありがとう」と孫たちが手を合わせてくれるかもしれないと思っているのである。

『SOGI』131号 青木新門

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