新門随想

(27)蛆が光って見えた

 

 私の最近の講演は「いのちのバトンタッチ―映画『おくりびと』に寄せて」と題して話すことが多い。その話の中で、なぜ原作者であることを辞退したかということを話すことにしている。
 
 映画「おくりびと」の最初のシナリオを受け取った時点で私は原作者であることを辞退したのは、『納棺夫日記』の着地点と似て非なる作品であると気づいたからであった。私がひょんなことから葬儀社に勤め、納棺専従社員として働き始めた最初の頃は無我夢中で恐る恐る死体に接していた。そんなある日、この死者たちはどこへ往くのだろうかと思った。人は死んだらどうなるのだろうか? 往生とは? 浄土とは? 神の国とは? 仏の国とは?などと真剣に考えながら仕事をするようになっていた。やがて死者や死に往く人に導かれるように死の実相を知り、仏教に出遇って、何だ!そういうことだったのかとわかって著したのが『納棺夫日記』であった。

 その肝心な部分がカットされてシナリオは書かれていて、完成した映画も「石文」という寓話で終わっていた。今日の既存宗教やその葬送のあり方には拒絶反応を示しながらも、愛別離苦の悲しみを如何にして癒すかという作品になっていた。即ち近代ヨーロッパ思想の人間愛で終わっていた。私はどうしても納得できなかった。

 人は明日どうなるかわからないと今日不安に襲われるものである。後生がどうなるかわからないのに今を安心して生きることなどできない。そのことを解決するために宗教がある。宗教が葬式に介入するのはそのためにであると言ってもいい。だから葬送儀礼の作法は、後の世へ送るということを前提に成り立っている。たとえば仏教葬に携わる僧を導師と言ったり、その導師が「成仏せよ、呵!」と言ったりするのも後の世へ死者を送ることを目的としている。その送り先は浄土であったり、仏国土であったり、神の国であったりするわけだが、そんな作法で葬式を執り行っている僧侶までもが、映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞すると、宗教が無視されているのに称賛するといった不可解な現象さえみられた。
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 今日の社会は、知性や理性を重んじる科学的合理思考、即ち分別知で成り立っていて、宗教までもが分別知で解釈されている。霊性などといった非科学的なものは排除される傾向にある。鈴木大拙師が戦後間もなく著した『日本的霊性』に、「霊性に目覚めることによって、初めて宗教がわかる」という言葉を残している。そして師は続ける。「私は信じる。光の中に包まれているという自覚があれば、それで足りるのである」と。

 私はこの言葉でハッと気づかされた。光の中に包まれているという自覚は霊性に出遇うことで生じる。仏教的に言い換えれば、仏性に出遇えば、仏教がわかるのである。私がそのことを実感したのは、文学をやっていた時、いくら読んでも何が書いてあるのか全くわからなかった道元の『正法眼蔵』も親鸞の『教行信証』も、眼から鱗が落ちたように理解ができるようになったからであった。

 また、光の中に包まれると、あらゆるものが差別なく輝いて見える一瞬がある。腐乱死体に群がる蛆が光って見えたこともあった。そのことを『納棺夫日記』に書いたのが、俳優の本木雅弘君の目に止まり、彼がインドを旅した写真集にこの文を引用させてくれとの申し出があった。快諾してしばらくしたら、『天空静座』と題された写真集が送られてきた。インド・ベナレスのガンジス川の岸辺で送り火を手にした上半身裸の彼の写真に「蛆たちが光って見えた」という一文が添えられていた。当時二十代の彼が「蛆が光って見えた」という文を引用したことに私は驚きを覚えた。いい感性を持ついい俳優だと思った。もし映画化することがあれば本木雅弘君をおいて他にないだろうと確信した。やがて彼は十五年の歳月をかけて「おくりびと」というアカデミー賞受賞作品を世に出した。私は彼に喝采を送ったが、しかし今でも映画は映画、『納棺夫日記』は『納棺夫日記』だと思っている。なぜなら映像化などできないスピリチュアルな世界、即ち〈光の中に包まれているだけで、それで足りる〉と私は思っているからである。

『SOGI』130号 青木新門

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