新門随想

(26)神仏習合と和の心

 

 東日本大震災から一年が経った。その間いろいろなことを考えさせられた。特に注目させられたのは日本人の精神構造であった。三月一一日までは「断絶の時代」とか「無縁社会」と報道していたマスコミが手のひらを返したように「一人でないよ」とか「絆」とかを前面に出して報道していた。

 日本人、特に東北人の精神構造は重層的といっていい。表面的には近代ヨーロッパ思想のヒューマニズム(人間中心主義)を基盤とした物質文明の思想で覆われているが、地殻変動や津波でその表層が剥ぎ取られた時、そこに見られるのは古来から綿々と受け継がれてきた土着の思想である。それは柳田国男のいう常民(土着の庶民)の思想といってもよいかもしれない。その思想は、土着の庶民が自然をありのまま体(感性)で受けとめた思想であり、自然を対象化して頭(理性)で考える思想とは本質的に異なる。そんな土着の思想があたかも液状化現象のように表に現れたのであった。日本は先進国で西欧と同じ思想だと思っていた外国人には理解できないのは当然であろう。海外特派員などは、仮設のコンビニの前で一列に並んで順番を待つ被災者の写真や被災者が花見をする写真と共に、どうして日本人はあれだけの大災害の中で暴動も起こさないで互いに助け合いながら整然と復興に立ち向かうことができるのだろうかと驚嘆の記事を本国に送ったりしていた。
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 私は二〇年前に著した『納棺夫日記』にこんなことを書いている。
「私が、この葬送儀礼という仕事に携わって困惑し驚いたことは、一見深い意味を持つように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知った。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどであった。人々が死をタブー視することをよいことに、迷信や俗信が魑魅魍魎にはびこり、入らずの森のように神秘的な聖域となって、数千年前からの迷信や今日的な俗信まで幾重にも堆積し、その上日本神道や中国儒教や仏教各派の教理が入り混じり、地方色豊かに複雑怪奇な様相を呈している」

 この文を書いた当時の私は土着の風習や思想を古臭いものと否定していた。明治政府が性急な近代化を推進する過程で神仏分離令など関連法令によって土着の神々や土着の思想を切り捨てる政策を打ち出した時、柳田国男や南方熊楠が民族学者の立場から反対し擁護した真意がわかっていなかったのである。

 今日都会のマンションには神棚もなければ仏壇もないが、私が葬式の現場にいた頃、まず神棚に神隠しの半紙を張り、仏壇に手を合わせ、それから葬式の打ち合わせに入ったものだった。どの家にも仏壇と神棚が同居していた。神仏習合の姿があった。そのことはお盆やお彼岸に墓参りをし、正月にはお宮参りをするという風習となって今も続いている。

 神仏習合というと、神と仏が入り交じっているようなイメージを与えるが、本地垂迹説から生まれた思想で、本地(仏)は土着の神々を包摂して、神々は権現として顕れ、仏の守護神となるといった考えで成り立っている。
 仏教が生まれたインドでも、仏教が広まってゆく過程でインドの神の帝釈天や梵天に守護されていた。バラモン教(現ヒンズー教)の八百万の神々も排除しなかった。他国から伝来した宗教がその土地に定着するには土着の神々との習合が不可欠といえる。そのことはロシア正教や南アメリカのキリスト教などにも見て取れる。我が国でキリスト教が伸びないのも、土着の神々を完全に否定して切り捨ててしまう思想に馴染めない日本人の体質に因るのかもしれない。

 土着の神々を切り捨てるということは、その土地で生まれた思想をも切り捨ているということである。そうした視点で今日の全国的に画一化された葬送儀礼を見るなら、利便性と合理性ばかりが目立ち、神仏習合と土着の風習で成り立っていたものが無くなっていることに気づく。これでいいのだろうかと思ってしまう。大地から生まれた思想は、そこに住む人々の情感によって具象化されたものである。私は日本人の基底にあるのは我が国の風土によって生まれ育まれた情緒であると思っている。その情緒は日本人の〈和のこころ〉に通じるアイデンティティに他ならない。その和の心が一瞬表に顕れたのが東日本大震災であった。

『SOGI』129号 青木新門

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