新門随想

(25)桜の季節

 

 今年も桜の季節がやって来た。桜と言えば、やはり西行であろう。西行ほど桜を歌った歌人はいない。奥吉野に庵を結んで三年間も桜に埋もれるようにして暮らしていたこともあった。生涯で二三〇余の桜を歌った和歌を残している。

 西行は一一一八年生まれで、今年のNHK大河ドラマ「平清盛」と同年であった。しかも北面の武士としても同僚で、武勇に秀で歌をよくした西行の名は、御所の中まで聞こえていた。文武両道の美男子。華やかな未来は約束されていた。しかし、西行は「北面」というエリート・コースを捨て、一一四〇年、二二歳の若さで妻子を捨てて出家する。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあるとされることから「西行」を法号とした。西行は出家を前にこんな歌を詠んでいる。

  世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

 出家した人も何かを求めており世を捨てたとは言えない、出家しない人こそ自分を捨てているのだと。当時出家と言えば、延暦寺や興福寺など大寺院の山門をくぐることであった。しかしどの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのである。しかしなかなか悟りへ至れない。そのことを正直に歌っている。

  花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に

この世を捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろうと嘆いている。私はこの西行の悲嘆に共感する。親鸞の「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずへし傷むべし」(『教行信証』行の巻)と似た心情に通じる。しかし両者とも発菩提心(浄土への願望)は微塵も揺らいでいない。そのことを裏づけるような辞世の句も桜であった。

  願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ

 この歌のとおりに西行は、如月の望月の頃、桜の花の満開の下で、文治六年(一一九〇年)二月一六日に死を迎える。西行が予言したとおりの日に往生したのを知った当時の人々は感動し、深い感銘を受けたのであった。藤原俊成は西行の死に感じ入って次のような歌を詠んでいる。

   願ひおきし花の本にて終りけり 蓮(はちす)の上もたがはざらなむ

 旧暦の二月一五日は、仏陀の命日であるから、仏陀の後を追うように往った西行を讃え〈蓮の上にたがはざらなむ〉と成仏疑いなしと歌っているのである。
     *
 仏教は生と死を分けないで生死一如を基盤としている。西行は生死一如の視座に立って桜を見ていた。その点で私は西行に共感する。だが一般には生と死を分けて、時には生に偏重したり、死に偏重したりして思考している。桜花に関しても、万葉の時代は乙女にたとえた恋歌として生を讃え、平安時代は吉野桜が咲き誇る平城京への望郷の歌として、また江戸時代には「花は桜、人は武士」と武士道の鑑として、戦中では『同期の桜』に見るように潔い散り方を美化した死の花、靖国の花として歌われた。

 私は桜花が生を感じさせたり死を感じさせたりするのは、散花の瞬間に生死一如の実相が表に顕れるからだと思っている。そのことに気づかされたのは、花瓶に生けた桜の枝を数日後に見たら、花は枝にくっついたままだらしなく萎んでいたからだった。桜の花が噴花するように散るのは、いのちの流れが花を押し出しているからなのだと気づいた。だからあんなに嬉々として花が散るのだと思った。いのちを託した喜びなのだ。散花はいのちの讃歌なのだ。そう思うと眼の前の満開の桜が〈いのちの光〉となって燦然と輝いて見えるのだった。

『SOGI』128号 青木新門

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