新門随想

(24)科学と宗教

 

 昨年三月十一日の東日本大震災と、それに伴って起きた福島第一原子力発電所の事故は、東北に住む人々に言語に絶する災難をもたらした。そして原発がいかに危険極まりのない未熟な科学技術であるかを露呈する結果となった。私は爆発で鉄骨が剥き出しになった建物が放映されるたびに、アインシュタインの次の言葉を思い出していた。

  科学的でない宗教は盲目である
  宗教のない科学は危険である

 この言葉はアインシュタインが広島に原爆投下されたことを知らされた時発した言葉だとされている。まさに原発事故は、科学を信仰するヒューマニズム、即ち人間中心主義の過信が生んだ悲劇だと言ってもいい。〈宗教のない科学は危険である〉ことを大自然が実証して見せたのである。想定外の津波であったなどという科学者がいたとしたら、科学者までが非科学的な安全神話を信じていたのではないかと疑いたくなる。

 科学は、実証を重んじる。実証が全てなのである。どんなに立派な科学的論文も実証されなければ紙屑に等しい。そうした意味で私は、仏教ほど実証を重んじる宗教はないと思っている。仏教の実証とは、悟りである。古来より仏教修行者は悟りを目指して精進してきたのである。そのことを発菩提心という。しかし今日、仏典や経典を解釈して語る学者や僧は多いが、悟りを目指す僧はほとんどいない。真証の証に近づこうともしない僧侶が仏教を語っている。そのことを恥ずかしいことだとも痛ましいことだとも思っていない。

「誠に知んぬ愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず、恥づべし 傷むべし」(『教行信証』)
 親鸞は、真証の証に近づこうともしないことは恥ずかしいことだと悲嘆している。

「我の習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし、況や身斃るるの後をや。この陰すでに朽ちなん。真を仰がんには如かず」
 これは空海の言葉である。都の大学で高級官僚への道を目指していた空海が突然大学を辞めて、山林に分け入り仏道修行を始めた時の悲壮な決意文である。この文意は「私が今大学で習っているのは、古(いにしえ)の聖人が唱えた言葉の糟粕である。生きているこの瞬間にとってなんの役にも立たないし、まして死後のためには言うも愚かだ。こんな死んだ知識はもう意味がない。真の道、即ち仏の教えに精進するに勝るものはない」と宣言したのであった。
 
 ここでいう「糟粕」とは「酒糟(さけかす)」のことである。なんと的を射た表現であろうか。酒糟は酒の匂いがするが、酒ではない。酒糟をいくら科学的に分析して解明しても清酒は作れない。しかし今日の仏教学者は、過去の酒糟のような古人の言葉を解釈したり注釈したりしてそれが仏法だといわんばかりに知識をひけらかしている。法然も『一枚起請文』の冒頭で「もろこし我が朝にもろもろの知者の沙汰し申さるる観念の念にあらず。また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」と実証の証ともいえる言葉を残している。歴史に残る高僧たちの行き着いた悟りの境地には科学的な実証の裏打ちがある。
     *
 あの大震災に対して〈宗教のない科学は危険である〉といった声が巷から聞かれるようになった。そんな風潮に意を強くして仏教界も科学の危険性を叫んでいる。  しかし、仏教界はその前に「科学的でない宗教は盲目である」という言葉を謙虚に傾聴すべきであろう。盲目であるということは、行き先が不明朗であるということである。行き先があいまいであるということは、葬式の目的自体が盲目となる。私があえてこのことを強調するのは、今日でも葬式の九割近くが仏教葬で行われている現状があるからである。しかもその葬送作法は、行き先(死後の世界・浄土)を絶対視する思想で構築されている。にもかかわらず死後の世界など信じない会葬者の前で、真証の証に近づこうともしない僧侶が読経する姿は、まさに〈科学的でない宗教は盲目である〉ことをさらけ出しているようにしか映らない。

『SOGI』127号 青木新門

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