新門随想

(23)インド最後の旅

 

 再びインドへ行って来た。インドへの旅は五度目である。海外旅行の中で最も多い。なぜインドなのかと問われれば、ブッダがお生まれになった国だからと答えるしかない。また近代になって、インド国民にブッダの再来と敬愛されているマハトマ・ガンジーや詩人のタゴールを輩出した国だからと付け加えるだろう。この三賢者に共通するのは、彼らが一民族や一国家の歴史に偉大な足跡を残したということでなく、全人類の普遍的な真理をその全人格で顕現したことにある。

 今回もガンジス川中流のブッダが歩かれた足跡を辿るように歩いてきた。しかし私にとってこれが最後のインドの旅となるだろう。最後の旅といえば、中村元博士が原始仏典パリニッバーナ経を訳した『ブッダ最後の旅』が浮かぶ。私は岩波文庫版のこの本を繰り返し読んでいて、ブッダが王舎城を出て終焉の地クシナーラーへ向かう最後の旅の道程で何を説き、何をしたか、ほとんど頭の中にある。特に脳裏に焼き付いている場面がある。雨期にある村でブッダが安居に入られた時、死ぬほどの激痛に襲われた。しばらくして回復された時、付き人アーナンダの心配を読み取り、「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。―中略―『わたくしは修行僧のなかまを導くだろう』とか、あるいは『修行僧のなかまは私を頼っている』とか思うことがない」
 
 ブッダは自分が教団の指導者であると思ったことがないと自ら語っている。晩年は巨大な教団の指導者だと思っていた私は驚くとともに親鸞が「親鸞は弟子一人ももたず」(『歎異抄』)と言った言葉に通じると思うのだった。
 ブッダは続ける。「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」

 この言葉の次に有名な語句が続く。
「アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう」

 ブッタはこの言葉を残してヴェーサーリー市に向かう。この場面での次の記述に私は驚嘆するのだった。
〈さて尊師は早朝に内衣を付け、外衣と鉢をたずさえて、托鉢のためにヴェーサーリー市に入って行った。托鉢のためにヴェーサーリーを歩んで、托鉢行からもどって食事をすませたあとで若き人アーナンダに告げた〉
 とさりげなく記されている。八〇になり革紐でやっと保たれているような老体のブッダが、朝食を得るために自ら托鉢に出ている。常に無一物なのである。ブッダに帰依した王様や長者に寄進された竹林精舎や祇園精舎は雨期の安居を過ごすだけで、衣・食・住への執着は微塵もない。見事な仏道修行者のあるべき姿である。

 私はこの『ブッダ最後の旅』によく出てくる「修行完成者」という言葉に注目したい。ブッダは、二九歳で出家し、前正覚山での苦行では悟りを得られず、ブッダガヤの菩提樹の下で悟りを得たのは三五歳であった。ブッダが偉大なのは、それから四五年間完全な悟りに至るまで自ら説いた四諦・八正道を実践して一修行僧として歩き続けられたことである。私は親鸞が〈生死出づべき道〉を求めて九〇歳までただ一筋に歩き続けられたことを思わずにいられない。ブッダや親鸞だけではなく、歴史に残る偉大な人間に共通するのは、目指す目的を完遂するまで正しい精進を怠らないで歩き続けておられることである。

 インド独立の父として今もインド国民から敬愛されているマハトマ・ガンジーはアンヒサー(非暴力・不服従)を決意した時「目的が崇高であればあるほど、正しい手段が求められる。目的は手段の集大成にすぎない」と目的のために手段を選ばない者を戒めている。このガンジーの言葉はブッダが歩いた仏道の道でもあった。
 そのブッダが修行完成者として終焉の地クシナーラーに向かって歩きながら、アーナンダに語りかけるようにつぶやかれた言葉が素晴らしい。
 樹々は美しい
 この世は美しい
 人のいのちは甘美である

『SOGI』126号 青木新門

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