新門随想

(22)納棺師の姿

 

 東京のある仏教公開講演会に招かれ出講した時のことであった。講演を終えて控室に居たら、主催者に案内されて僧衣の老僧が入って来られた。老僧は椅子に座るやいなや「君に言いたいことがあって来た」とにらみつけるように言うと、
「先月私の妻の葬式で葬儀社から派遣された納棺師がやってきた。あれは何だ! 見ていて鼻持ちならなかった」

 その剣幕に、なぜ私が怒鳴られなければならないのかと思ったが、「いろんな人がおられますからね、男性でしたか?」と問うと、
「いや、三十歳くらいの若い女性の納棺師だった。『おくりびと』の映画の影響かもしれないが、歌舞伎役者みたいに大袈裟な所作で、それがわざとらしくて不愉快この上もなかった。やがて化粧をし始め、白粉を塗り真っ赤な口紅を付けた。九十歳の婆さんを花魁みたいにした。生前婆さんが口紅など付けたのを俺はここ二、三十年間見たことがなかった。孫たちがきれいになったなどと言っていたので、我慢していたけど、俺は不愉快でたまらなかった。君はどう思う?」

 よほど腹だたしかったのか、講演を聴いているうちに私が納棺師という職業を生んだ張本人であることを知り、一言苦言を言わずにはおれなかったらしい。
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 映画や演劇では、表現したいことを誇張する傾向がある。歌舞伎の所作などはその典型といえよう。私も映画『おくりびと』を完成試写会で観た時、実際の納棺の現場ではあり得ないオーバーな演技が気になった。実際に納棺をしていた頃の私は、老人には化粧はしなかった。事故などで亡くなった若い女性の場合などは死化粧をしたこともあるが、そんな時でも「お使いになっていた口紅ありますか」と生前をよく知る近親者に声をかけ、化粧を手伝ってもらったものだった。

 老僧を立腹させた納棺師は、葬送の意味も、死者への思いやりも、遺族の悲しみへの配慮もなく、映画を鵜呑みに真似て自分の仕事振りを誇らしげに見せつけようとしていたのではなかろうか。仕事の本質を忘れて形式だけに力を注ぐようになった時、その職業は存在理由を失う。それはあらゆる職業にも言えることだが、今日の仏教界も他人ごとではないように思える。生・老・病・死の今日的四苦を抱えて寺に救いを求めてやって来る人の心に寄り添うことなく、格好をつけて形式的に読経をしているかぎり、先の納棺師と五十歩百歩と言われても仕方がない。
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 私が納棺をしていた昭和四十年代には、枯れ枝のような遺体を見かけたものだった。人の死にも晩秋に枯葉が散るようなイメージがあった。それが経済の高度成長期頃から点滴の針跡が痛々しいぶよぶよ死体となり、葬式の現場では、ご本尊中心の祭壇が遺影中心の祭壇に様変わりし、死者と遺族が語り合う場であったはずのお通夜が告別式のようになり、宗教の介入を拒むお別れ会や偲ぶ会が流行り始めた。それは〈生〉に絶対の価値を置く思想のもたらした社会現象に他ならない。九十歳の老婆への赤い口紅もその現象の延長線上にあるといっていい。しかし死を忌むべき悪とみなし生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬという事実に自分が直面した時、絶望的な矛盾に出会うことである。
 俳句などを作る人は〈春の新緑は美しい、夏の緑も美しい、秋の紅葉も美しい、冬の木立も美しい〉と感じて作句するが、いざ自分のこととなると〈青春は美しく、老は醜悪で、死は忌み嫌うもの〉だと思っている。自然の環境変化に対応して、秋には紅葉し、冬には全ての葉を落として裸木になっても命の存続を賭けて生きる凛とした姿が美しいのである。

 死に様は人によってみんな違う。他者の死の受け止め方もみんな違う。〈手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池〉という歌があるように、一つの音に対しても人それぞれの見方があるだろう。
 しかし私が納棺の現場で気づいたことは、この作業を仕事としてする場合は、死を忌み嫌うのでなく死を美しいと思える人がやるべきだということだ。そんな人の言動は、死を受容した死者に対する優しさ、残された人たちの悲しみへの思いやりが、一つ一つの所作の中に自ずから顕れてくるものである。

『SOGI』125号 青木新門

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